ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

【後編】幻の塩の道を訪ねて…。大鳥-山熊田をつなぐ山、二の俣峠に行ってきた。

2018/01/11

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※このブログ記事で書いた歴史・民俗に関する情報は、大鳥・山熊田に住む人から聞いた話や、地域に関わる資料や民俗学の書籍を参考にして書きました。

※この記事の写真は、2015年8月に山熊田に行ったときに撮影した写真です。

 

ども、田口(@tagu_h1114_18)です。

こういう記事を書くのは始めて。今回は僕が好きな民俗学的な切り口で、大鳥、そしてお隣の山熊田について綴っていきたいと思います。まだまだ未熟な文章・考察ですが、温かい目で見守ってください。笑

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大鳥と山熊田。

二の俣峠で繋がっていた二つの地域は、生業・交流を目的に互いを行き来することもなくなり、この山道を横断することもなくなってしまった。

しかし、大鳥と山熊田を行き来していたことの証(ブナに刻まれた文字跡)もあり、「この道を通っていた。」という事実を自分の目で、確かにすることができた(前編の山行レポートを参照)。今では藪だらけになってしまったであろう大鳥側の山道にも、「山熊田へいく」という文字が掘られているであろうか…。

現在では、山熊田と大鳥は県境で分断され、道路が舗装され、それぞれの行政区画の中で暮らしいる。けれど、その間には山道があり、長きに渡って人が行き来し、交易をして生きてきた。

合理の中で切り開き、幾度となく踏み固められてきた山道。

互いの無いものを手に入れるために始まった交易。山道をどんな目的で通っていたのか。

生活圏が近い大鳥と山熊田はどんな関係にあったのか。

 

後編の記事では、そんなことを少し、紐解けていきたいと思う。

※山熊田~二俣峠までの山行レポートについては、【前編】幻の塩の道を訪ねて…。大鳥-山熊田をつなぐ山、二の俣峠に行ってきた。をご覧下さい。

幻の塩の道

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昔の大鳥の人たちはこの、二の俣峠が無ければ生きていけなかったんじゃないか…。

山奥には塩がない。生きるため、食糧を腐敗から防ぐため、どうにかして塩を手に入れなければいけなかった。

 

藩政(江戸時代)以後では、塩を手に入れるルートは確立していた。

山熊田で言うところの“塩木“、大鳥で言うところの“八尺木”。これらは共に、山奥から木を切りだし、川を使って木を流し、平場で薪として使ってもらう代わりに金銭や塩やら生活用品と交換する生業。山熊田は中継(なかつぎ)集落を経由し、海沿いの塩の町、府屋へ。大鳥は本郷集落を経由し、鶴岡の内川へ薪木を出し、塩を手に入れていた。川の氾濫などの危険性はありながら、合理的な方法で安定的に食料を手に入れようとしていた。

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しかし、藩政より前。少なくとも大鳥が開村した800年前(鎌倉時代)から江戸時代を迎える前までの400年間はどうしていたのか…。

約800年前、曽我の兄弟に仇討ちされた工藤祐経の弟、工藤大学が伊豆(静岡県)から落ち延びてきた一向は、6~7年越後国の高田城下(現 新潟県上越市)で暮らした後に、隠れ里として大鳥へ移り住み、開村したと言われている。

『旧田沢組大鳥村外創村旧記』によると、『越後国高田の五十嵐小文治に飯米・黄金を借り、「借用の米金は熊、青獅子等を採り返納す」』と記載され、高田城下で暮らした時に借りたお米・金を返すためにクマ・カモシカを狩り、恐らく毛皮・肉・熊の胆などを返納していた。

それ以外、藩政が始まる前までの400年間のことを記した文献は見当たらないが、大鳥の人曰く、大鳥の存在は周辺地域(庄内)には知られず、ひっそりと生き延びていたらしい。

 

先に、越後国高田と交易していた記録を載せたが、肝心の塩は物理的な距離を考え、一つの交易先として山熊田があったんじゃないかと、個人的には思う。

高田(上越市)から大鳥に向かうまでのルートでは、『大鳥の池を通り、大鳥の川に住みついた』らしいので、山熊田を経由したとは考えづらいけれど、生活圏(狩猟・採集で利用する山場)が近いから知ったのかもしれない。なんせ、400年もあるんだ。大鳥の人以外との接点が全くないとは到底考えられない。

また、山熊田に住んでいる人たちの苗字は全て、"大滝"だ。そして、大鳥の松ケ崎集落に暮らす人に多い性も"大滝"。大鳥の創村伝説の記述では、先述の通りまず繁岡に工藤一族が住み着き、次にブナ平(現 寿岡集落)に三浦一族が。最後に角間平(現 松ケ崎集落)に大滝一族が住み着いたとされている。(勿論、藩政以前の話。)つまり、山熊田の人が、大鳥の松ケ崎に住み着いた…ということが大いに考えられるし、そのことがきっかけで山熊田との交流・交易が始まったかもしれない。

そして山熊田が、その頃から塩木のようなことをしていたとしたら…。

府屋など⇔中継⇔山熊田⇔二の俣峠⇔大鳥というルートで塩が流通していたかもしれない。

つまり、二の俣峠が塩の道”であったということも十分に考えられる。

 

タイトルにつけた”幻”の意味はこれである。

 

塩は生きるために必要不可欠で、宮本常一や柳田邦夫などの民俗学の書籍を見ても、全国津々浦々の山村にとって”塩の道”は超重要な役割を果たしていたと記述されている。そしてそれは全て、塩を手に入れるためという”合理”の元に切り開かれ、踏み固められてきたものである。

とはいえ、『越後国高田の五十嵐小文治に飯米・黄金を借り、「借用の米金は熊、青獅子等を採り返納す」』というたったの一文だけで、ここまでを推察するのは信憑性が低いけれど、まぁ一理あるかも…くらいに思って貰えればと思う。

※山熊田も大鳥も、明治初期の戊辰戦争で焼き打ちに合った歴史があり、過去の文献は燃えてしまったことも考えられる。

 

だいぶ遠回りになったけれど、「大鳥-山熊田には歴史的な視点からみても関わりがあっただろうな~」と言いたかっただけ。

そして、その関わりはつい最近まで、続いていました。

 

山熊田・大鳥の暮らし、生業と交易。

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昭和30年代、池田林業という鶴岡にあった会社から依頼を受け、山熊田の人夫たちは二俣峠を超え、大鳥の人たちと共に県境近辺でパルプ用の木切りの仕事に勤しんでいた。

また、大泉鉱山が経営されていた100~40年前まで頃、山熊田の人達は大鳥の枡形へ勤めにきていた人もいたそうだ。

※熊谷達也著『邂逅の森』でも、山熊田・大鳥のことは書かれている。

 

一方、大鳥から山熊田へ嫁いで親類になり、交流を持つようになった家族。山熊田集落から少し離れたにある浅間(せんげん)神社。なんともありがたい神様がいるとのことで、大鳥のおなごしょ(女性たち)は山を越えて参拝にいっていた。

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浅間(せんげん)神社

 

また、生活圏が近しいこともあって、必然か、暮らし・生業・文化も似ている。

狩猟・採集・木切り(杣夫)・炭焼き・田畑など、山を糧にして暮らしてきた。冬には2mを超える雪が降る、耐え忍ぶ暮らし。アケビのツルやブドウのツルを利用して作ったテンゴの存在も共通。

そして、山熊田も大鳥もマタギ集落である。

マタギ発祥の地、秋田県阿仁の旅マタギ、松橋富松(比立内出身)、山形県東田川郡朝日村の八久和や本郷、大鳥など月山麓の村々や新潟県岩船郡山北町山熊田など朝日連峰西麓の村に猟を伝えた、とされている。(※参考文献:『マタギを追う旅 ブナ林の狩りと生活』田口洋美著)

山言葉や使用する道具・儀式などは多少の違いが見られながら、阿仁の”それ”と近しい生活・環境・精神性が今も残る。山の神の信仰。集団による巻狩り。平等な配分を行うマタギ勘定…など。それらの根本には、厳しい生活環境の中で互いに支え合って生きていこうとする強い強い共同体意識が絡んでいる。

生活圏が近いが故に、軋轢をも生むことも…。詳細は省くが、ムラの縄張りを破ったとか破っていないとかで、多少揉めているとか。

 

共通することがたくさんある。やたらと気が合うお隣さんみたい。けど、たまには喧嘩だってするだろうさ。似ていることは、無いものを補い合う関係よりも難しいかもしれない。

パルプの木出しや鉱山の仕事が無くなった後も、数年前までは、年に一度は大鳥と山熊田を行き来して交流会(飲み会)をしていたそうです。※その時は山の道ではなく、海沿いの道を通って。旗振り役をしていた人が亡くなってからは、その交流会も途絶えてしまい、今では個別にやりとりがあるかどうか…。

けれど、大鳥の人に僕が山熊田に行ったことを話してみると、全面には出てこないけど、どこか気にかかったような表情を浮かべてくれるのは、なんだか嬉しい。

 

終わりに…

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二の俣峠から大鳥を望み、静かな胸の高鳴りが僕を少しだけ、ノスタルジックな気分にさせた。10年ぶりに故郷に帰った気持ちに似た何か…。

現在、山熊田は20数軒からなる集落で、人口40人程度。大鳥でいう、繁岡集落と同じ規模感の地域。標高150mではありますが、隣の中継集落まで5キロ以上も離れている山奥。そして豪雪地帯…。過疎と高齢化、そして消滅への道筋が見え始めているのは大鳥と同じ…。

 

なんと!山熊田には僕と同世代がいました。

同世代というか、同い年のたかし。

 

「たかし、元気かよ?」

たかしは狩猟はしていないけど、山は好きみたいだった。

 

少しシャイなようで、最初はうまく話せなかったけれど、トレッキングイベント終了後の反省会(飲み会)で打ち解けた。

大鳥に戻ってから既に2回も、彼と電話をしている。

またいくよ、山熊田。その時はまた呑もうよ。たかし。

 

僕は、山熊田が好き。

山熊田のおばあちゃんから聞いた、「大鳥の人は真面目で、コツコツ頑張る人がたくさんだよなぁ~」という言葉がすごく嬉しかったけど、これはまだ、胸の内にしまっておくことにする。

 

大鳥から二の俣峠までの山道を切り開き、大鳥の人と共に山熊田へ行く。

その日まで…。

 

せば、またの。

※山熊田~二俣峠までの山行レポートについては、【前編】幻の塩の道を訪ねて…。大鳥-山熊田をつなぐ山、二の俣峠に行ってきた。をご覧下さい。

【この記事の関連書籍】

大鳥や山熊田についても綴られた、秋田の阿仁マタギの世界感を描いた小説。

本当のマタギとは何か…。現場のマタギたちは何を思い、山で暮らしているを知るための入門書。同じ田口でも、著者の田口洋美先生は、ほんとスゴイ方です。

 

宮本常一さんの本は民俗学の入口としてとても読みやすいのでオススメです。

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