ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

水の道はどこへいく? 水路と田んぼと地域の暮らし。

2017/09/07

ども、田口です。

水は生活に欠かせないモノだということは、生活インフラの電気・ガス・水道の中で支払いが遅れても最後まで止まらないのが水道、ということが証明している通りで、まず都市にいて水道を使うことが当たり前の世代に育った僕らは、水が川から引っ張ってきていると言われて一応の納得はするが、実感はない。

小学校の頃(その頃は大阪にいた)に浄水場見学というのがあって、巨大なタンクに水が入ってて、「これで浄化してみんなの生活水になっているんだよー」みたいな説明を受けた記憶がちらっとあるが、その頃は「ふーん」って感じで興味の対象にもならなかった。

今、僕は山奥の小さな村に暮らしていて、地域の人が川の水をパイプで引っ張って堀に水を流し、その水で野菜を洗ったり魚を飼っている家々をみて、少し実感は湧いているが、相変わらずうちは水道水。生活の半分以上は自治体が供給する水道に身を預けている。

巨大なダムがあって、そこで水量が調整され、上水道で浄化されて家々に供給され、下水道を通って海に流れていく。

これが当たり前なんだけど、なんだかシステムが大きすぎるし、維持管理しているのは基本行政なので、水道が止まったら水道局の責任だし、僕たちは『止まったよ』というだけで、後の顛末は知らない。

それで社会が成り立っているからそれはそれで良いんだけど、巨大なシステムが無かった一昔前はそんなことも言ってられなかったんじゃないか…って興味があって。少なくとも、僕が暮らしている大鳥地域に暮らしている70を過ぎたおじいちゃん・おばあちゃんは、上下水道なんてなかった時代から生きていて、その人たちの話を聞くのがとても面白いんです。

洪水でお墓が流れたり、橋が壊れたり。水量が多くて川上から流木が流れてきたらそれを子供達が拾って薪にしたり。山の水を引っ張って、自宅の中まで引きこんで、そこで洗い物をしたり。山の中に炭焼き小屋を建てていた頃、沢水を小屋の前まで引っ張ってくるのに堰(せき溝みたいなもの)を掘って引っ張ったとか。

今では中々起こり得ない水害も多々あったけど、山からくる天然の水を、暮らしの中で有効的に使っていたんです。

 

んで、前置きが長くなったのですが、半年前くらいに地域の人から、「200~300年前に作られたであろう水路があるよ」って話を聞いて、頭の片隅にあったのを思い出し、調べてみることにしました。

 

その地域の人の話をダイジェスト版にしてみたので、まずはこちらをどうぞ。

 

河倉沢(こくらざわ)から、200年か300年前に半三郎が酒井の殿様から許可を頂いて水路、今もあって、使ってはいないけれども、水路作った時の石碑でねかったんじゃないかなぁ…。

昭和55年に、ここに国土調査にはいったなやの、役場の人たちがきて。んで、役場の人たちがの、境界を測量していったろ。そしたら石碑さ見たことない漢字あるって。仲良い人が言うもんだっけ。俺も「どんなもんだや」って聞いたら、土さ埋まってたんだっけって。あまり深すぎてハッキリ残っていない。って。これは”ソクテン”って書いてあるんだって。全部じゃないけれど、昔の漢字は見てきたけど…。

あの沢は、河倉沢って、小さい沢って書いて。昔は小さいって字を小(こ)と読むだよな。河倉沢から水源をとって、誉谷の田んぼを改善したって、な。これを200~300年前に半三郎(屋号)がやったって。そして昔の提灯(ちょうちん)測量だから、ドッキングしたところが5mくらい違うんだよな。こっちさドッキングしたとこで、ちょうど岩盤だったから。今も水路はあるけど、水は入れてない。

誉谷の集落通って、大日如来いく道わかるろ。登り口のところを右にいくと水があって、登っていくと堰があって。岸壁で。水路があるはけ。その水路をたどっていくと、河倉沢の水の取り入れ口さ行くはずだ。石を並べたり、木の先を三角にして、石をのっけて、柴をどかして水をせき止めて…。三角クラって言ってな。細い柴をたてて、むらないようにして、葉っぱとかして、そうするとゴミがひっかかってそれを取るって。それは洪水で、水が堤防破れたりとか。堤防の緊急対策を前はしたんだやな。今は土嚢を積んだりするけど。誉谷の人たちは、その水で田んぼを作ってた。もう一つ、誉谷の上に池があるろ?あそこの水も使っていたけども。あれでは足りないしな。

※河倉沢:大鳥地域にある沢の名前

※誉谷(たかたに):大鳥地域にある集落の名前

※提灯測量:夜に提灯を上げ下げして土地の高低差を測量し、水路の勾配を決めたといわれる昔の測量術。 (@dokitomoさんに教えて頂きました。)

 

この話とGPSを頼りに、実際に水路探しに行ってみました。

水路フィールドワーク

 

結論から言えば、この青の軌跡が水路跡。緑のマークが小さな滝があるところで、赤点が田んぼ。

水を取り入れていたであろう小さい滝。

この滝を見つけるのに苦労するだろうな…と思ったけど、案外すんなりと見つけることができました。

滝が落ちたところに、コンクリートでできた管があって、コンクリートなのでそんな大昔のことではないと思うのですが、このあたりから恐らく水を引っ張っていた。大昔は石とか、木をくりぬいたものをトヨにしていたんじゃないかと思います。栗の木は水が漏らなくて良いって聞くし。

水は高いところから低いところに流れていくので(※当たり前)、緩やかな下り坂になっているのですが、先ほどの滝からを横切るとすぐに、写真みたいに堰が作られていた。山の斜面を恐らく鍬のような道具を使って水路を掘った。右側が高くなっていますが、これは水が漏れないように掘り起こした土をそこに被せたんだと思われる。

手入れをしていないから木が倒れてもそのまんま。

柴だらけのところもあったけど、ずっと堰が続いているから、水の通り道だったことはすぐにわかった。

 

途中、こんな石碑があった。なんて書いてあるのかわからない。

この石碑がある場所は水路の合流地点になっていて、近くには田んぼらしき跡地があった。

水路の合流地点の側を林道が走っていて、恐らく水路が使われなくなったから埋め立てられたのかわからないけど水路が途切れてしまっていた。

が、少し探してみるとまた水路らしいものがあって、それを辿って300mくらい進むといくと

大きめな池があった。恐らくここに続いていたと思われる。集落から程よく近く、標高が高いので溜池のようにして使っていたと思われる。

池の河口にいくと、今度は立派な沢になっていた。

この沢の途中から、現在は使われていない堰を発見したので、その堰を今度は辿ってみると…

杉林の中に田んぼがあった。正確には田んぼだった場所。

田んぼの近くに水を溜める穴?みたいなのがあった。これもコンクリ製なので昭和中期頃かな?

水が引け、集落からそんなに遠くなく、ある程度平たくなっている場所は田んぼにした。山の中に放棄された田んぼなんて、ここに限らずもっともっと沢山あるのを見てきた。そのくらい山間地には広い土地がなかったし、反面、ある程度水が確保できた思われるから小さい棚田を沢山作ったんだと思う。地域の人からも、山の陰(山のてっぺんまで行って、降りたところ)に田んぼを作っていて、昔は牛を連れて山を歩かせ田を耕したと聞くし。そうしたって、明治初期の頃の大鳥の田んぼの収量は田んぼ一反(30m×30m)で1~2俵(60~120kg)だって言うし、乾田農法や苗代改良、肥料の変化、農機具改良が始まった明治中期~大正を経て、昭和初期でも3.5俵(250kg弱)。(大鳥では乾田農法の普及が遅れていたらしい。※参考:朝日村誌 下巻)そう考えると現代の品種改良や肥料などの技術はスゴイと思う。今だと田んぼ一反から6~7俵(360~420kg)は普通に取れるから。

考察

 

ここでもう一度水路地図。

緑の点、水の取り入れ口から赤点の田んぼまで、直線でいけばいいモノを、山を横切って、横切って、緩やかに山を下りながら水路が作られている。(水路と等高線の関係をみれば何となくわかるかと思います。)

水路の合流地点にも田んぼの跡地らしきものがあって、そこに流したかったのもあるだろうし、下の航空地図を見ると集落の山手のほうに流しておいて、田んぼや集落全体に流せるようにしたかったんじゃないかなーって思う。水の取り入れ口から直接地域に引っ張ったら、山手の田んぼには水が流せないから。

けど、滝から水路の合流地点だけでも1kmあって、そんな長い距離、堰を作り続けたのには頭が下がる。山道の補修工事をやったことがあるけれど、数人で数十メートルやるのでも1~2日掛かったし。

集落の回りにそうやって水路を張り巡らせて、田んぼや家の前に水を引っ張り暮らしをたてていたんだと思う。水路はインフラなので、一度作ってしまえばあとは、枝や枯葉で水路が詰まったらそれを取り除くなどの維持管理だからまだいいけど、それにしたって…、です。水を確保することがいかに大切だったかが、この堰の長さからも感じとれる。

ちなみに江戸時代幕府の頃は、水路などのインフラ整備は地域の人が必要を感じたら先に工事をしてしまって、それを役所が認めてお金を出すというシステムだったらしい。(これは人から聞いた話で、まだ書籍などで確認はしていませんが。)現在とは逆ですね。

 

終わりに…

都市に住む人にはピンとこないことが多すぎたと思いますが、元々は手作業で、山の沢水なり川の水を引っ張っていて、田んぼが作りやすい場所に引っ張ってきたり、水路に従って家の場所を決めて建てていました。生活インフラと呼ばれる火も水も、半世紀前までは自分たちでコントロールする、手の中にあった。

だけど、自然は厄介で、洪水もするし乾水もする。どうにか安定して水を手に入れたいという願いが現代の技術で進化して、ダムになり、コンクリの水路になり、上下水道になったのもうなずける。けれど、川には魚がいなくなり、手元から水が遠ざかった。

 

こういう事を、とある地域の人は、【豊かさの弊害】と表現します。

便利と引き換えに、失うものがあることを知りながら、便利を受け入れないと暮らしにくくなる自分がいる。

大きなインフラシステムに囲われた現実を受け入れながら、だけど根っこを知っておくことは大事なことかなと思う。水が生きてると森が生き、森が生きていると水も生きる。水があると動物も植物も、虫も人間も生きられる。そういうことなんだと思う。

僕は、山に行ったら清水・沢水・川の水、関係なく飲みます。喉を潤したい。ただそれだけだけど、ちょっと生意気なことを言うと、そういうことを通じて自然の水との関わりを持っていれたらと思います。普段は絶対こんなこと考えながら飲んだりしませんが。笑

あと、この水路は制覇した風に語ってしまっていますが、水源地がある沢までは行けていないし、別の水路もありそうなので機会をみてまたフィールドワークしたいです。

 

せば、またの。

-民俗・文化

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