ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

大鳥の由来をたどって…。神奈川県中井町にある町指定重要文化財、大日如来坐像を訪ねてきた。

ども、田口(@tagu_h1114_18です。

 

地域の歴史や文化、民俗は活かし方によっては盾にも矛にもなる。 

というのが、2年くらい前から僕の頭の片隅にありまして。

歴史や文化、民俗といった地域が残してきた記録を調べてきて、より一層地域に興味をもったし、地域の人たちが日々当たり前にやっていることが単純に凄いと思った。本当の意味での住民自治をしてきていたし、合理性をもって自然や人とお付き合いしてきた。これを大鳥の輪郭という本にまとめたけれど、2017年度からはWeb上で、主に民俗学を切り口にして大鳥のことを紹介していきたいと思っているのですが、そこに物販を絡めたいなと思って今、ホームページ立上げを行っています。

 

前置きはこの辺にして、神奈川県は足柄郡中井町半分形(はぶがた)地域というところに行ってきました。

ここは、大鳥地域の開村と深く関わりがある地域でして、文献や新聞の切り抜きでは読んだことがあったのですが、訪れるのは初めて。

両地域の関わりについて、大鳥地域が開村した背景からお話しますと…。


僕が暮らす大鳥地域は、開村してから800年以上の歴史がありまして、開村のキッカケは日本三大仇討ち事件の一つ、曽我兄弟の仇討ちだったそうです。

建久2年(1193年)5月、鎌倉幕府が始まって間もないころに源頼朝が富士の裾野で巻狩りを催した際に曽我十郎祐経と五郎時到の兄弟が、五月雨の暗夜に乗じて狩場の陣屋に忍び入り、亡き父の仇をと付け狙っていた工藤祐経を討ち取るという事件があった。

工藤祐経の弟、工藤大学は伊豆の国(静岡県伊豆半島)伊東で御城番をしていたところ、兄の祐経が討たれたことを源頼朝の使者から聞き、自身も追われる身になってしまった。

落ち延びて越後の国高田城片下原というところに6~7年過ごしたのちに、多良左衛門という金山見立て役の人から隠れ里として住むに適した場所として大鳥を紹介され、移り住むことになった。

工藤大学が伊豆の国から落ち延びてくる際に、工藤一族・百姓らを率いると同時に、兜や鎧、刀、鑓などと共に、相模国田中の森に鎮座していた大日如来を持って行った。

大鳥に移り住んでからは、誉谷(別名:二階巣)集落の大日山にある、大日堂に大日如来を安置し、堂主は工藤右京が勤めていた。

※この話は、『湖底の青史』という冊子を参考に、削ったり砕いて記述しています


前知識もなくいきなりこのお話だけでは咀嚼し難いかもしれませんが、もしご興味ある方は、曽我兄弟の仇討について書かれている曾我物語や吾妻鏡を見てみてください。

 

ポイントは、工藤大学が落ち延び、最終的にたどり着いたのが大鳥で、逃げる時に相模の国田中の森(現 神奈川県中井町半分形地域の近く)から大日如来を厨子(入れ物)ごと持ってきた。というところなのですが、このことが歴史的に裏付けられた新聞記事がありました。

 

2012年6月に荘内日報さんが出した記事なのですが、一部抜粋しますと

神奈川県中井町の住民たちが12日、鶴岡市大鳥地区に、開村にまつわる落人伝説とともに伝わる「大日如来坐像」(市指定文化財)を参拝に訪れた。約820年前、村の開祖・工藤祐茂(大学)が相模国・田中(現中井町)から捧持してきたと伝わる仏像だが、中井町では「盗まれ、行方不明」とされてきたもの。このほど大鳥にあることが分かり、800年の時を超えて対面した同地区の関係者を「大日如来の不思議な縁」と喜ばせた。”

 

仏像は大鳥の二階巣(誉谷)の大日山・大日堂に安置され、「火伏せ如来」として慕われてきたが、お堂の老朽化や過疎化によって維持が困難になった。このため大鳥地区大日如来保存委員会が組織され2005年6月、地区内の龍雲院(藤原知雄住職)に移した。

一方、「盗まれた」と伝わる中井町では、代わりの大日如来像を作り、半分形(はぶがた)地区自治会館に安置していた。1979年にこの後継の仏像を調査したとき、内部から胎内仏と共に、なくなった経緯や、後継の仏像が2代目(本物から数え3代目)で享保18(1733)年に作られたなどの記録が見つかっていた。

 

とある。

※原文記事はこちらからどうぞ。 800年の時を超え対面|荘内日報ニュース

 

この記事をみて、関東に行く用事があった時にぜひ実物を見てみたいと思って中井町役場経由で半分形の自治会長さんと連絡が取らせて頂き、木造の大日如来像を見せて頂きました。

中井町半分形自治民館。ここで自治会長さんたちと待ち合わせ。

玄関には大日如来坐像の看板がありました。中井町指定重要文化財になっている。

自治会長さんたちとお会いすると早速、大日如来像がある場所へと案内して頂きました。

これは上の大日如来坐像のお腹の中あたりにいる胎内仏。元々田中の森(神奈川県中井町)にあった大日如来が工藤大学によって持ち去られた後に作られた大日如来像で、像としては2代目にあたる。

木造の大日如来坐像。

2代目の大日如来の管理する人が途絶えてしまい、像やお堂が大破してしまったことで、秦野の菩提村というところの僧が、半分形村の人たちと協力して資金と信仰の力を集めて江戸時代中期に作られたそう。大日如来像としては3代目で、現存しています。

額に入れられた古文書も拝見させて頂きました。

昔、大日如来が誰かに盗まれてしまったこと。その後、信仰心のある人が大日如来像(2代目)を作り、大日堂に安置したこと。その後2代目の像を管理する事が途絶えてしまって、半分形村の人たちの資金と信仰の力を集めて3代目の像を作ったことなどが記述されているそうです。

 

 

半分形地域にある大日如来が、大鳥にある大日如来と歴史的につながりがある事がわかって以来(上記URLの荘内日報の記事の通り)、半分形地域では歴史の勉強会を始め、大日如来のこと、曽我物語のこと、源頼朝のこと、半分形地域に深く関係ある中村宗平を始める中村一族のことなどをテーマに月に一回ペースで、今までに24回もやられてきたそうです。

古文書の解読も含め、大日如来に関する資料を見させて頂いただけでも、相当熱心に研究されていると感じました。

 

これだけ情報が溢れた世の中になっても、わからないことが沢山ある。

僕は専門家ではないですが、大鳥にあった事実を一つ一つ、書籍等の裏付けも含めて確認していきたい。大日如来の話以外でも、半分形地域と大鳥が決して無縁ではなさそうなエピソードを聞き、心が躍った。あと、大鳥にある旅館は朝日屋という名前なのですが、中井町にある唯一の旅館の名前は朝日旅館というそうです。これはたまたまかもしれませんが。笑

 

お話の最後に、自治会の方々と記念写真を撮らせて頂きました。

半分形自治会のみなさん、お忙しいところご対応して頂き本当にありがとうございました。

 

帰り道、大日堂の跡地を見学しにいきました。

写真の左側にある石段の一つ上のちょっと丘みたいになっているところにあったらしい。

大日堂があったところから工藤大学が大日如来を持ち去り、大鳥の誉谷に大日堂を作って安置させた。その山の名前は大日山というが、それもその時につけられた名前なんじゃないか…。

憶測は尽きないけれど、新しく知る事ができたこと、知っていた知識が良い意味で覆ったこともあり、とっても有意義な時間だった。

曽我兄弟の仇討ちのこと、工藤家のことなど、背景の知識がもっとあれば理解が深まっただろうにという後悔はあるが、大鳥の歴史に関わる事なのでこれを機にもっと勉強したい。

 

関連リンク:

 

僕が大鳥民族誌を作った理由|ひろろーぐ

大鳥民族誌ができるまで。~『大鳥の輪郭』作成の裏側をまとめてみたよ~|ひろろーぐ

【告知】大鳥民俗誌『大鳥の輪郭』を一冊1,560円(送料込)で販売します。|ひろろーぐ

 

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