ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

認知症の母と脊髄梗塞の私の、お茶の間合戦。それでも母に寄り添って…。(あした天気になーれ!からの転載)

2021/03/08

突如、脊髄梗塞を患ってしまったマルさん(仮名)から、病と戦う奮闘記(あした天気になーれ!)の第二弾の記事が届きました。

 

ども、田口(@tagu_h1114_18)です。

今回もマルさんの記事の編集に携わらせていただきました。

 

障害を背負い、下半身がろくに動かせず、家の中で家事を行うことも困難になってしまったマルさん。その上にのしかかってくる家庭内の葛藤とは…。体験しているからこそ出てくる言葉に、グッと息を飲んでしまいそう…。

ぜひご一読ください!

 

第一弾の記事は以下のリンクからどうぞ。

「歩けないけど歩きたい!」突如患った難病”脊髄梗塞”と共に生きていく人生(あした天気にな~れ!からの転載)|ひろろーぐ

 

以下から本文。

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桜伝線はあっという間に日本列島を駆け抜けていきましたが、我が家の春はまだまだ先のようです。

私は車椅子生活を送っている身体障害者でもありますが、認知症高齢の母とも生活を送っています。

我が家は母と寄り添って生活していたはずなのに、最近では戦っている感じがします。

 

母はほんとに認知症?

2月末なのに春を思わせるような陽気のとある日のことでした。

 

ポカポカ陽気に誘われたのか、両親は高齢にもかかわらず元気な様子…。父は、午後から認知症セミナーに出席するためコミセンに出かけていき、家には私と母の二人。

私は、じーっと自室にて息を潜めていました。父の不在中に、母の変貌がおこならないことを願って…。

 

そんな昼過ぎに、懐かしくハツラツとした声と共に、近所の母の友人が一年ぶりかで訪ねてきました。

母は元気な頃のような笑い声で友人を迎え、茶の間に招き入れるような物音が聞こえてきました。

ドタバタした2人の子供のように笑い声やらはしゃぐ声と、物音が延々と続き、”あー、春だなー”とため息にも似た、私のつぶやきがもれました。

 

母はまったく病気とは思わせないハツラツとしたしっかりした友人とのやり取りが出来ています。時折、私の部屋にまで、いや外の方にも聞こえるような大きくはっきりした声で、自分のことや、友人との再会のこと、今の家のことをなんやかんやと話しているようでした。

友人が母をかき立て、話に花を咲かせている様子にも伺えました。

 

「あー、何ていうことか…。」

 

母は病気ではないんじゃないか…という私の、確信にも似たような驚きが、胸の奥底からふつふつと湧いてくるように思えるのです。

「気分で体を変えてしまう人?「精神科の病?それともわざと家族を苦しめ、ワガママを通しているだけ?!」そんな思いが頭の中をぐるぐる回っていくのです。

 

昨日は内履きのまま、台所の窓越しから外に出た跡がありました。

台所の床に、枯れ葉と、土のついたスリッパの足跡が薄く残っていました。周りにはちりばめたティッシュの紙くずが細かく散乱していて、自分で掃除をしたつもりなのであろうと。私はそれを不自由な体で掃除をしてなんとか、何事もなかったように片付けたのを思い出していました。

 

最近の母は、家の中で行く場所場所でカーテンなどを開けっ放し、窓を開ける行動がありました。冷たい風が吹き込む日も、雪が降る日もあるのに、おかまいなし。そして母は、一様に満足すると、ストーブとコタツのある日当りの良いあたたかな茶の間に戻って行くのです。

やっとあたためた家の中は、茶の間をのぞいて冷たい。カーテンを開けっ放しにしたにもかかわらず、光がどこかへ屈折して暗く、心まで凍ってしまったように感じる…。

 

「あー、何でまた…」

“認知症だから-。しかたない-。そっとしておこう!”

私たち家族は日々、そう自分自身に言い聞かせてきました。

 

それなのに…。

 

今日の母は、正午過ぎから夕方まで、ずーっと大声で話し笑っている。

しかし、それを良かったと思う気持ちをどうしても持てず、ただただ、ため息が出るばかり…。

誰かに「助けてください!」と叫びたくなるのを我慢しているのです。こんな不自由な体でも私は、母を、家族を…何とか。そんな思いでいたのに。

 

攻撃的になっていく母と、消耗していく家族。

私は、過去に『認知症高齢者に寄り添って生きる世の中にしよう』と呼びかけてきた一人でもありました。「認知症の家族がいたら当人に寄り添い、地域で助け合って生活を支援していこう。家族で協力して両親を支えて生きていこう。」そう思ってきました。

しかし、いざ自分の家族のこととなると、まったく違う現実が目の前にあり、驚きを隠せません。

 

母には、私が脊髄梗塞になる前から、認知症のような症状が見られていました。しかし、私の8ヶ月にわたる長い闘病生活の間に、急激に病が進んだように思います。母もツラかったに違いないと思うと、何とか穏やかな生活を、そう祈り願っていました。

 

地域包括の相談員とも相談し、父と長男が働きかけたことで母の介護保険を申請することができました。

しかし、母は人前では(誰でもそうだと思いますが)、たいへん気を遣い、まったく本来の姿を見せようとはしません。

そのためか、認定は”非該当”と通知がきてしまいました。その間にも母の病気は進み、家族の前で暴言を吐くなど、攻撃的な態度をとるようになりました。家の中はどんより沈みこみ、家族がみな、疲れているようでした。

 

再度、申請をおこない、やっとの思いで認定が降り、”要支援2”と判定されたことで、週一回のデイケアを、介護保険で利用できることになりました。家族の休息が少しでも期待できると思っていました。

 

しかし、残念なことに家族、特に父と娘の私には以前にも増して攻撃的になり、不穏な行動も多くなっていきました。

 

そんな母の言動に父は、そっと見守ってやることが母を守ることであると一途に思っている節がありました。母に医師の診察を受けさせようと勧めても、父は母の病気を認められないのか、他人に母の現在の姿を知られることが嫌なのか、医療機関にさえも行くことを拒むようになっていました。

それゆえ周りからの支援の声ではある一線を超えることができずに、時ばかりがもどかしく流れていきます。

これでは父が先に倒れてしまう心配もあり、不安がつのるばかり…。

 

私は支援にいらしてくれる訪問サービスの方から励ましてもらい、心身を救ってもらうことで何とか日々を送っております。いつまで続くかも、この先どうなっていくのかもわかりませんし、父も母も同じように高齢ですから…気が休まる日がない毎日。

家族の疲れ、落胆は増すばかりで、認知症の家族を持つことがこんなに大変な事なのだと身をもって知ることとなりました。

 

母の気持ちに寄り添うこと。

母の目線で見てみれば、母も、私自身も、私の車椅子生活にある日突然なってしまったのですから、やりきれない、認められない気持ちなのでしょう。

父は、不自由になった私のために、手の届かないところにあるものや、重いものを持ってくれるなど、私に手伝ってくれます。そんな父の姿も、昭和初期、戦後に生きて来た母にとって、不自然に思えるのかもしれません。母にとっては母の好きだった小物や、壁掛や、咲き誇る鉢物を置いていた棚も取り除かれてしまい、哀しかったことでしょう。

 

不自由な体でも私が、家族のために料理や家事を行えるようにリフォームされたキッチンは、母にとっては理解できないIH型。車椅子に座った位置でも手が届く高さに作られた棚のために、窓枠が外されてしまいました。

母は光を求めカーテンを開けていたのかもしれません。しきりに窓を開け、外を眺めていたのは、リフォームして変わってしまった我が家を確認していたのかもしれません。

 

 

母の体の変化は、自身にとっても不安な毎日だと思います。

その上に自分の手垢がたくさん付いた数々の家材が、リフォームされたことで変わってしまった。それが、母にとってどれだけ不安なことだったか。我が家が自分の見知らぬ家になってしまった…と。

 

その結果、家族への攻撃的な行動、不穏な行動として現れたのかもしれません。時にはまるで別人に、変貌することもありました。そんな母の後を追っかけ、そばで見守ってやれたのに…今の自分の不自由な体がうとまれます。

 

そうして家族を振り回してはまた、母は茶の間に戻っていく。

 

母は、家をリフォームする際に、茶の間だけは変えることを拒んだそうです。

あの日当たりの良い、居心地の良い茶の間は、以前の茶の間のまま。

いつも家族を振り回したあと、必ず母は茶の間に戻っていきます。そして何事もなかったように、穏やかな母へ戻っていきます。

 

自分のリハビリとか、何とかと話す前に、母のこの苦しみを理解するべきだったと思います。リフォームした自宅を少しでも母が、安心できるように伝えていくべきだったのでしょう。

しかし、何度伝えても、新しいことを理解することが母には難しいようです。

 

私の病のために家をリフォームしてくれた家族のように、私も病になった母に合わせていくことも大切なのでしょう。

自分自身も不自由な体と、体の痛みに耐える毎日。共に病と戦う者、必ず家族みんなで笑顔で生活できるように、何度もチャレンジです。周囲の皆様からの支援を受けつつ必ず何とか…。

 

終わりに…

障害者の家族には、多かれ少なかれ、内に秘めた思いがあると思います。

2011年、東日本大震災の年に、母は自転車から転落し骨折してしまいました。次男が大病を発病したのも同年でした。あの年から我が家は病と闘い始めてきたと思います。

 

東日本大震災から4年の月日が流れていきました。被災者の皆様の心の内にある闇には、いかばくの思いがある事でしょう。それでも、「前へ!前へ!」と皆様は口々に叫んでいるように聞こえます。

 

私たち家族も少しずつ先に進めなければなりません。たとえ障害者と言われても、人並みの親子のように、家族を大切にしたいと思います。

 

「ばーちゃん、明日はお天気?」

 

母は今日も窓を開けっぱなし、外をひとしきり眺め、そして暖かな日当たりの良い茶の間へ戻っていきました。

窓に手が届かなかったら、私が棒の先を使ってでも窓を閉めてやりましょうか…。

 

冷たい風が…どうしたものでしょうか?!

今日も我が家は母と戦ってしまいました。

 

「明日天気になーれ!」

 

明日こそはお天気でしょうか。

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元リンク:あした天気になーれ!

 

せば、またの。

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