ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

余所では通用しない地域の知識・技を身に付けることの意味。

ども、田口(@tagu_h1114_18)です。

「会社なんていつ倒産してもおかしくないんだから、どこでも通用するスキルや知識を身に付けたほうが良い。」

僕が社会人の時に通ったセミナーや、コンサルを受けていた時に言われた言葉。

当時、その話は至極まっとうだと思い、ノートにも書き止めていた気がします。

 

けれど最近、そんなこともないんじゃないかって思い始めています。

 

地域独自の知識や技は、余所では通用しない。

僕が山形県鶴岡市大鳥というところに住んで3年が経ちました。

3年も経てば地域事情も知るし、山に行けば山の名前や沢の名前、草木や動物の名前も覚えていく。熊狩りなんて特殊な技術も少しずつ身に付けている。

 

けれど、冷静に考えてみればこれらの知識や技は、限られたエリアでしか通用がしない。

僕の暮らす大鳥地域の近隣には、新潟県村上市の山熊田や、ダムで沈んだ村、奥三面。朝日連峰を挟んで南東側にある西川町、大井沢。同じようにブナ帯文化であり、同じように豪雪地帯でもある。似たような自然環境に囲まれ、近隣の地域では方言が似ていたり、生業や生活も似ている。この狭いエリアの中であれば、大鳥の中で身に付けてきた知識や技も、100%とはいかないまでも70%くらいは発揮できるんじゃないかと思う。

 

でも、沖縄とか、東京とか、更には海外なんて肌の色も慣習も違うところにいけば、役に立つ知識・技もかなり限られる。春の熊の巻狩りなんぞ、日本の中でやっている地域はかなり限られているし、何年もかけて覚えてきた山や沢の名前は、余所の地域に行けば意味をなさない。覚えた知識・技を、1割も発揮できないかもしれない。

地域で暮らすと、そこの自然環境や生活慣習、歴史、文化を深く知ることができる。それは、余所でも応用可能な知識・スキルというものからは遠ざかることをも意味する。

 

東京で大鳥について熱く、深く語っても、興味を持つ人は1%もいないだろう。「そんな汎用性の無いものを身に付けて、これからのグローバル社会でどうやって闘っていくんだ?」と、総合商社勤めのエリートサラリーマンなんかに言われた日には、無力感を感じてしまうかもしれない。

 

それでも地域に暮らし、そこでしか通用しない知識・技を身に付けていくことは大事な意味があると思う。

 

グローバル社会だから、むしろ汎用性よりも専門性。

グローバルとローカルの議論は、今までも色んなメディアで散々行われてきた。

グローカルなんて言葉も飛び出てきたこともあったし、”Think globally ,Act Locally”なんて言葉は今も結構使われる。

僕は、隠居系男子というブログでこの記事を見てから、グローバル社会というのはテクノロジーの後押しもありながら、世界中の人たちが近いしい生活水準で暮らしていける流れであると同時に、むしろ、ローカルな生活慣習や文化をも意図的に際立たせようとする流れなんじゃないかなと考えるようになった。

数年前に僕の頭の中で流行ったフレーズは、「日常をむしろ見世物にしたほうが良い」というもの。草津温泉でよく例えるのですが、あそこでは湯船のお湯をかき混ぜるのに、未だに女性たち数人が謎の長い板を使い、更に歌を唄いながら湯をかき混ぜる。普通に考えれば人件費はかかる一方だし、もっと便利な機械や道具がありそうに思える。けれど、あの昔からやっているであろう見世物が魅力で人が押し寄せている。

 

観光という切り口だけではないにしても、日本におけるヤオロズノ神は、グローバル社会の中でキリストに切り替わるのか?と言ったらきっとそうじゃないし、むしろ失われつつある超ローカルな祭りや行事が、若者の手によって復活・維持されている。

日本全体で見れば、復活より消失する文化・伝統が多いだろうけど、「その地域にしかないものを背負う」というアイデンティティーは信仰・宗教と同じくらい強力で、むしろそういうモノに引っ張られて地域に訪ねたり、土着したりするものだと思う。

地域のアイデンティティーが宿った形たち(生業・信仰・生活慣習・行事など)は、汎用性が効く商品・スキル・知識とは別枠で、草津温泉のように観光と言う名の矛にすることも、守り神を祀る神社のように地域住民の盾にすることもできる。

僕はそう思う。

 

終わりに…

世界中、どこの家にも行ってもダイソンの掃除機も、パナソニックの洗濯機も、アップルのパソコンもある。そんな世界がこれから訪れるだろうし、ネットワークやスマホがそれを後押ししている。人工知能やVirtual Reality、スマートグリッド、電気自動車、自動運転などの技術が進めば進むほどに、今まで以上に生活が楽に、そして世界との距離が縮まっていく。そんな未来を見てみたいし、僕も山頂までドローンで行ってみたい。

だけど、自分のアイデンティティーは借りてきた技術の中ではなく、足元にある。その地に暮らしている人間にしか共有できない時間・空間があり、形があるというのは、強烈なアイデンティティーを形成する。

 

こういうことを考え出すと、1から10までわかる世界が、人間一つは必要なんじゃないかって思う。

僕らの暮らしは借り物ばかりに囲まれているけれど、一つくらい、最初から最後まで全て自分でやれるという世界。その感触。手触り感が、とっても大事な気がします。

思いつきだしあんまり根拠ないけど、そう思う。

 

この続きはまたいつか。

 

せば、またの。

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