ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

2015年の振り返り~鬱と下方修正された目標。そこから立ち上がる勇気~  

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今年の"山の神"という行事で、お参りした時に撮影した一枚。

 

ども、今年は当たり年だった田口(@tagu_h1114_18)です。

 

なぜなら2015年の元旦、高知県南西部の凍結した路面上で”かまを掘られ”てスタートしたから。レンタルした車は操縦不能に。橋の上はあれよあれよと事故の連続でカオスな状態。

年末年始で旅行に出かけているのに、新年一発目から腰痛を抱えるというのは、中々の奇跡です。笑

 

さて、僕の2015年はそんなスタートだったのですが、365日も経てば身の回りは色々と変わるもので、僕の中でも変化がありました。

特に後半戦。

8月下旬から今日にいたるまで、僕の身に降りかかってきたことが衝撃的だったので、その辺を中心に振り返ってみたいと思います。

 

鬱になる。

8月下旬~9月下旬頃まで、生まれて初めて鬱ってやつにかかりました。

 

鬱にかかった経緯や詳しい症状は下記からどうぞ。

参考:僕は一ヶ月の間、鬱(うつ)というやつにかかっていたらしい。|ひろろーぐ

 

ブログにも書きましたが、足元から崩れ落ちたって感じだったんですかね。

どんなに理論武装した言葉も、どんなに正しいと思って話す推論も、地元の人の圧倒的な経験を目の前にしては何の意味もないというか…。

今まで自分が喋っていた言葉が、薄っぺらく感じてしまったんです。

 

そして言葉を失った。

だけど、今振り返れば一つ救いだったのが、コミュニケーションが上手にとれなくても、動く背中を見てくれている人がいるということ。

 

僕が鬱でいる間、地域のおばあちゃんがよくクルミ拾いに連れてってくれました。

現場に向かうまでの車内はぎこちないんだけど、クルミを拾い始めれば無言でいい。

冗談を言ったりする必要もなく、黙々と作業をしていれば、「田口君、やってるな…」と暗に認められている気がして…。

気持ちがすごく楽でした。

 

上手く話せなくても誰かと一緒に体を動かしたり汗を流したりすることができれば、こんな自分でも少しは社会に認められている、という気がしてくる。

認められているような気がするというのは自分の錯覚かもしれないけれど、それでも少し自己肯定が生まれる。

そうやって少しずつ良い方へ変わっていったのかなと思います。

 

だから、己の小ささを知り、落ち込んだ末に例え言葉を失ってしまっても、表に出ることだけは辞めなくて良かったなと思う。

自分から誘うことはしなかったけれど、その間にいろんな飲み会やら集まりがあって、誘われるものには顔を出していました。表に出たところできっと自分の思う通りに話せない。自分がいることで場の空気も微妙になるし、辛い気持ちになる。「今日もまた、上手に話せなかった…」って落ち込む。嫌われたんじゃないか…って気持ちになる。

だけど、それでも表に出た方がいいのかなって。

傷口がドンドン広がるから痛いんだけど、身の回りにいる人たちは案外大人で、そんな自分のことも気遣ってくれたりする。表にで続けていれば、そんな自分を受け入れてくれる人もどこかにいる気がします。

勿論、個人差があるから皆が皆とは言えない。僕の場合は身の回りの人たちは幸いにして大人が多かったからよかった。強者の理論かもしれませんが、あくまで僕一人の体験談として受け取って貰えれば嬉しいです。

 

下方修正された現実から、もう一度に這い上がる勇気。

そして実は、鬱から立ち直り始めた頃が結構大変なんです。

 

自分の身の程知らずさ加減を知った僕は、立ち振る舞いが自然と小さくなっていきます。

「出来もしないのにデカい口で語るなんて…」と思い始め、「やれるようになってから話せよ」という戒めを自分の胸に刺すんです。

 

今までの自分が愚かだった。

今の自分にはまだまだ経験が足りないんだから、意見・口出しは辞めておこう。

自分の中にじっくり、しっかり、時間をかけて確かなものを培っていこう。

 

何かの会議や話し合いをしている時も、瞬発的な反応をせず、頭の中で一度考えてから物事を発言するようになる。「自分の身の丈にあった発言か?」ということを。

 

そうして徐々に、大きな目標や未来のことを語るのを辞めていくんです。

僕の言葉から、「こういう風になりたい!」とか「こういう意識で暮らしている」という発言をあまりできなくなりました。会議で意見を求められても、月並みの言葉しか出なくなったり。他人の意見・考えに対して、分析を兼ねたツッコミができなくなっていました。

これを僕は、ブログで自分のこと、日常のことをアウトプットする頻度が少なくなったからだと思っていました。今までの自分の言葉は、日常の中で蓄積された自分の考えをブログで文字に起こし、アウトプットしていた。その中から出てきた言葉が、僕の口から出る言葉の中心だったような気がする。

 

だけど、それもあったかもしれませんが、根本的には違うんです。

自分の中でそう振る舞うのが謙虚なつもりだったのですが、自信を失っていた。

 

そうなった時に、頭の中で巡ってくるのは夢・目標から下方修正された現実と、その延長線上に見える世界。

 

「身の丈にあわせた暮らしをしよう。」

「自分の今できることをマイペースにやっていこう。」

「週2日も休みをもらえているだけで幸せだ…。」

 

こんな世界を見始めます。(こういう風に考えること自体が悪いとは思いません。その人その人の考え方があるから。)

だけど、自分の内側から湧いてくるワクワクするような言葉・考え・イメージを、謙虚さだと思って塞ぎ込んでしまうと、現在や過去のことばかりを語りだし、現実的なことばかりに目が行くようになってしまうんです。

 

そうなると、どういうことが起こるかと言うと、

  • 他人が考えている以上に自分を小さく見せてしまうようになる。
  • 目が輝いている人と話せなくなってくる。
  • 他人の目標・やりたいことを聞いてもなんとも思わなくなる。
  • 自分は自分・他人は他人という思考停止状態に陥る。

鬱から脱出したかな~…と思っていた頃(10月・11月)の僕は、そんな状態でした。

 

そんな時に支えてくれるのは、ここ(大鳥)に来た理由、この仕事をやろうと思った理由でした。

  • 自分自身で山の暮らしを体現したい。
  • そのプロセスを発信し続けることで、若い人にも山で暮らせるようになったら面白い。

なんのためにここにいるのか。

道半ばで、目標が変わったり、行先が変わったりすることもある。

だけど、少なくとも今、自分が行きたい方向が変わっていないのであれば再び声を上げなければいけないんじゃないかなって。

 

終わりに…

声を失ってから、再び声に出し、更には自分の未来を語るには勇気がいる。

だけど、ちゃんと自分のやりたいこと・生き方を、言うべき時には胸を張って言ったほうが、道は開けていくと思う。

 

そして次は、同じ失敗をしないよう、ちゃんと自分の中に確かな力、経験を積み上げていく。

 

まだ僕は大きな声で叫べていないけれど、身近な人と少しずつ未来について話せることが増えてきました。

目が輝いている人たちと話すのがまた、楽しくなってきました。

2016年は今まで以上に地味に暮らしていくと思います。

 

だけど、その中で積み上がったモノがあれば、少しずつ外に向けて出していきたい思っています。

 

そんなこんなで2015年、ありがとうございました。

形らしい形は残せていないけれど、この年は、僕にとって大切な一年でした。

協力隊でいられるのもあと4か月。

最後にはしっかりと、大鳥のことをまとめた民族誌を出せるよう頑張ります。

 

せば、またの。

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