ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

僕は一ヶ月の間、鬱(うつ)というやつにかかっていたらしい。

2016/01/17

写真 2015-10-22 12 15 13

医者の診断は受けていないけど、一ヶ月間、僕は鬱だったらしい。

 

ども、田口(@tagu_h1114_18)です。

 

今までも誰かと話していて「なんか会話が弾まないな~。」「冗談が言えないな~。」と感じることは何度もありました。

けれど、基本はポジティブでバカな田口。

一日寝れば大抵は回復して、またいつもの日常に戻っていきました。

 

10月に入ってようやく普通に会話できるようになったのですが、この前ふと大阪に住む中学の同級生にこのことを話したら、「鬱やん、それ…」と言われ、「そうだったのか…」と後々になって思い知るという。

今回の記事は、初めて鬱っぽいのになった経験談。多分、本気の鬱とは比べ物にならないくらい軽いものだと思うけど、鬱っぽくなった経緯や自分の中の変化などを綴っていきたいと思います。

 

追記(2016年1月17日)

2015年の年末に、この記事の続きを書きましたので、こちらも合わせてどうぞ。

2015年の振り返り~鬱と下方修正された目標。そこから立ち上がる勇気~|ひろろーぐ

 

挙動不審・言葉が出ない1ヶ月。

8月下旬から約一ヶ月間。とにかく誰かと会話するのが嫌だった。

スーパーに買い物にいっても、店員さんに声をかけることに気が進まなかった。「タマゴはどこに置いていますか?」という小学生でもできる質問ができない。レジはもちろんセルフレジを選んでいた。

ホームセンターで買い物をした時は、欲しいモノが中々見当たらずに30分も店内をうろうろし、レジでは定員さんと目を合わすことすらできなかった。

 

飲み会にいっても、結婚式にいっても、冗談も言えなければ簡単な質問さえも頭に浮かんでこない。話は聞こえてくるけど頭に入ってこない。誰とどんな話をしていたか、ほとんど覚えていない。話題が出てこないから、「俺に何か質問してくれ」とさえ思っていた。

けれど、僕が話せることといえば、山のこと、狩猟のこと、大鳥のこと、山の暮らしくらいのもの。けれど、そんなディープな世界の話題でキャッチボールができる人は数えるくらいしかいない。

 

とかく人と会って会話するしかない…という場にいると、早くその場を抜け出したくなる。

誰かと話をすると、自分が話している調子が、普段通りか、そうじゃないかくらいはわかる。誰と会ってどれだけ話をしても調子が悪いことを実感するから、話すのが嫌になる。その場にいるのが嫌になる。

「あぁ、今日も楽しく話すことができなかった。」「以前の僕だったら当たり前のように話せたのに…、なんで話せないんだろう。」みたいな思い込みが、誰かと接触すればするほど増幅していく。そんな負のスパイラルにはまって更に、『人と会いたくないなぁ…』という恐怖心につながっていく。

 

そんな中、タイミングが良いか悪いか、9月中旬に腹痛で1週間寝込んでいた。

地域の中で仕事ができていないという罪悪感を覚えながらも、ベッドから動けない状況は正直ありがたかった。

 

だけど、矛盾しているけど人と会うこと自体は、機会がある限りは続けていた。

このまま自分に自信を失った状態でずっと過ごしているのは嫌だ…。もしかしたら受け入れてくれない人も出てくるかもしれない。もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。

だけど、誰かと会って話せば、また普通に話せるようになるんじゃないか。中には、こんな自分でも受け入れてくれる人がいるんじゃないか。そんな超自分勝手なことを考えて、大鳥の人たちや友達と喋っていました。

もちろん、普通に話すことができなかったから、お酒を呑んで誤魔化すことも多かったけれど…。

 

冷静になった今になって振り返ってみると、こんな鬱っぽい状態になったのは変わろうとしている自分に対し、過去の自分の存在が反発していたんじゃないかなって思う。

この文だけだと訳わからないけど、次項を読みすすめて咀嚼してもらえたら嬉しい。

 

鬱の原因。自信過剰と自信喪失。

僕は地域おこし協力隊になって以来、とかく目立つような、陽のあたる場所によくいた。

協力隊になった初日から色んな新聞・テレビメディアに取り上げられ、次の日からはさくらんぼテレビさんが2日間の密着取材。

それ以後、「どうしてこんな山奥に移住したのか?」「外からみた目線、都会からきた若者目線でお話してくれないか?」みたいな演題で講話を頼まれることもしばしば。

ただ、東京の大学にいって東京に勤めていた若干20代後半の人間が、山奥に移住しただけで注目される。普通の移住者とは違い、特別扱いをされる。イベントに出店すれば「テレビみましたよ。」と、誰かが声をかけてくれる。そんなことが表に出れば割と日常でした。

 

けれど、僕の掌の中には何もない。

そんなことを覆い隠すように、『地域おこし協力隊』という看板は大きく、強く。

ただ、自分の中にあった熱い想いと展望。そして、「任期が終わっても山奥の大鳥に住みます!」という断定・覚悟。それを拡声するSNS・ブログ・新聞・テレビメディアが想像以上に強力で、経験乏しい僕を大きく見せてくれていたのだと思う。

 

一年目の後半では任期終了後も大鳥に住むことを覚悟し、山に軸足を置きながらブログやワークショップ、ネット通販などで生計を立てていこうと活動していた。外での活動が増え、友達・知人も増えた。

その反面、地域で過ごす時間、山で技を磨く時間、一緒に作業をする時間、おしゃべりの時間。それらを失っていた。

 

僕が大鳥に来た目的でもある協力隊になった理由が、

  • 山の暮らしを自分自身で体現できたらオモシロイ
  • 山暮らしを他人にも応用可能なレベルにして発信し続けていくことで新たに若い人が山に移住するかもしれない。

という二つなのですが、外の人に話す時はいつも「山の暮らしを体現したい」と言っているにも関わらず、体がそこに向かっていなかった。

少し広い世界で浮足立った自分は、客観視して制御するのが難しく、足元で着々と何かが崩れる音にも気付かない。

 

“自分は地域に生かされている”という頭を脇に置き、好き放題やっていた。それでも地域の人が仕事を頼んでくれることもあったが、朝寝坊がとにかくひどかった。約束を何度も破ってしまった。

けれど僕は、『現代は価値観が多様化しているから』という盾を持ち、夜型だから早起きは苦手というのを正当化していた気がする。外には味方でいてくれそうな人もいたし、夜遅くまで働くことで、朝早く起きられない穴埋めをしていたつもりだった。けれど、大鳥ではそんなことは通用しない。

 

こんな状況を見かねて、地域で慕っている人が、静かに僕から離れていった…。

大切なものを失った。

 

僕は、何のために大鳥にきたのか。

 

そんな問いかけをした時、宿り木のようにそこにあるのは僕が協力隊になった理由。

失ってからしか気が付けなかった大馬鹿者ではあるが、大切なものを失うことはもうしたくない。

 

メディアで拡張された自分を主軸に生きていくよりも、目の前の現実を生きようと、今年度はメディアの取材も極力お断りし、派手に活動するのは控えよう、大鳥に関わること以外で活動することは極力控えるようと決めた。捨てるものは捨てる。その代わりに、山の暮らしを取りに行く。

そう決めて、動き始めたのが今年の4月。

 

それから4ヶ月間。地域の手伝いは勿論、山菜採り、田植え、畑の種まき、自炊、保存食作り、山小屋の管理。時には自宅で友達と呑むこともあった。行動範囲は狭くなり、人に会う回数は減ったけれど、自分の向かうべき方向へ焦点を絞って活動している実感があり、充実していた。

 

けれど、8月下旬。突如、人と話すことが嫌になった。

自信過剰な中身のない人間。自分自身がそれに該当していることへの気付き。とかく何でも興味を持って動いては人と話し、つながってきた今までの自分から、山暮らしに集中する自分へと変わり始めた。

確たる原因…というのは未だによくわからないのですが、地に根を張ろうと動き始めた今の自分に対し、風に吹かれて飛んでいく過去の自分が反発していた。

その反動として自信を1ヶ月間、失ったのかな…なんて思います。

なんかよくわからない理由だけど、そんな気がします。

 

どうして自信を取り戻したのかはわからない。

正確に言えば、以前のように物事を断定的に話すことはできなくなった。等身大以上で物事を語ることもできなくなった。けれど、普通に冗談混じりで話したり、普通に目を見て話をすることはできるようになった。

復活とは言えないが、何かが変わった。そう思う。

 

再出発の灯。

今年度中に、大鳥のことをまとめた民俗学と雑誌の中間のようなものを作る、ということを決めていて、今年の4月から資料を調べたり、写真を撮ったり、文章を書いたりしています。

やればやるほど作業量が膨大なことに気がつき、大鳥に籠ることが増え、昨年のように多くの人と接点を持つこともなくなっていった。

大鳥のことを調べ、大鳥の文化や歴史、生業の世界に触れることに没頭している。民俗学の研究をしていた宮本常一、柳田国男の書籍は本当に面白い。

 

過去を紐解き、今も活きるモノに触れ、里山側が主張する山の維持管理機能とか、野生動物の管理機能といった社会的意義に情で流されることなく、右肩上がりに成長してきた時代が終わり、物流や情報技術、人の移動が著しく変化していく中で、失っていいものと失ってはいけないものは何なのか。そんなところに結論を持っていけたらいいなと思う。

 

暮らしや文化はパズルのピースみたいなもので、ヒトカケラではわからない。

“マタギ”や”狩猟”といったインパクトのある言葉に惹かれて尋ねる人達をその世界へと誘うこともあるが、それも何かの一つであって、核ではない。

全てのピースを揃えることは時間的に厳しい部分があるが、出来る限りのことはしたいと思う。

イラストを描いてくれると言ってくれている人もいる。英訳をしてくれるという人も見つかりそう。

届く人は少ないかもしれないが、カッコつくものを作りたい。

 

今、そんなことに没頭し、山に行き、畑作・稲作を通じて地域の人と暮らしを共にする中で、自分なりの山暮らしに向けて再出発をした。

 

今までの経験・想い出を捨て去ることはできないけれど、”これから”の時間の使い方は変わっていく。

 

もしかしたら、今まで出会った人が遠ざかっていくこともあるだろう。新たな出会いもあるだろう。

そんな揺らめきの狭間で、僕はこれからも山に立っていようと思う。

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写真は摩耶山という大鳥からほど近い、かなり険しい山を登ったときの写真。

 

大鳥に来てから死にかけたり鬱になったり、いろんな経験したけれど、こんなに面白い経験が出来るところなんて中々ない。10年後の自分はどうなっているのか…。10年後の大鳥が、どうなっているのか…。

まだ見ぬ景色に思いを馳せながら、今日のこともケラケラと、笑える日が来ることを静かに、楽しみにしています。

 

追記(2016年1月17日)

2015年の年末に、この記事の続きを書きましたので、こちらも合わせてどうぞ。

2015年の振り返り~鬱と下方修正された目標。そこから立ち上がる勇気~|ひろろーぐ

 

せば、またの。

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