平均寿命から逆算した生存可能年数の中に、人生のタスクをどれだけ押し込めるか。~28歳と72歳では描ける未来は全く違う…というお話~
僕は、ごくごく簡単なことの認識を間違えていました。
70代、80代の人達が、「日々楽しくいきていたいだけ…」という言葉の意味と、僕が「日々楽しく生きていたいだけ…」という言葉の意味が全然違うことを…。
ども、田口(@tagu_h1114_18)です。
「明日死ぬかもしれない。だから、せめて今日生きている時間を楽しく過ごそう。」
この言葉は、僕は2014年5月に初めての熊狩りで死にかけてからというもの、僕の頭の中をぐるぐると廻っています。
参照記事:狩猟デビューで本当に死にかけた。~マタギの世界はめちゃくちゃ厳しい!命懸けの熊狩りに参加してきました!~|ひろろーぐ
だから、生きるとか死ぬということをよくよく考えるようになった。
参照記事: 「毎日楽しく生きていたいだけ…」という生きた言葉が胸に響いた~希望と刹那に包まれた超限界集落、大鳥地域の10年後を見たい~|ひろろーぐ
どんなに忙しくても、どんなに暇でも、誰にでも人生に終わりはやってくる。
だから、悩んでいたり苦しかったりする時も、「明日死ぬかもしれないんだから、どうせなら楽しくやろう!やりたいようにやろう!」と開き直っているような格好でした。
こういった価値観を地域のおじいちゃんと話していたときに、僕は間違っていたと痛感しました。
「この先、あと何年生きられるかわからない」の意味は?
地域のおじいちゃんと、お酒が入りながら語らっていたとある夜のこと。
「俺らは明日には死ぬかもしれない。1年後かもしれない。長くてもあと10年だわ。」
僕に言い聞かせるように言う、おじいちゃん。
いままでに何度もこのセリフを聞いていたから、「なんだ、またこの話か…」なんて心で呟く。
少し切なくなる。
72歳という寿命で亡くなるにはリアリティー溢れる年齢だけども、僕はこのおじいちゃんが好きなのだ。
だから、亡くなって欲しいなんて思わない。
しかし、平均寿命から考えても「いよいよ自分の番が回ってきたか」と感じている部分があるのだと思う。
だから、後先のことをあまり深く考え込まず、目の前の一日を楽しく過ごせているのだと思う。
"生きるものは必ず死ぬ"という常識を、日常の暮らしの中で教えてくれる背中が、地域にはたくさんあります。それに、毎年地域内の誰かが亡くなっていくという現実は、死という現実の解像度をドンドンと上げていく。
おじいちゃんに「明日死ぬかも…」と言われる時はいつも決まって僕はこう切り返していた。
「そんなこと言ったって、僕も明日死ぬかもしれないんですよ。熊狩りの一件もあるし…。日々楽しく生きることは本当にステキなことだと思います。だから、寿命や年齢を言い訳にやりたいことを諦め、ご隠居しないでください。」
日々、死に向かっていることは生ける者みな当たり前で、僕はなにも間違ったことは言っていないと思っていた。
20代と70代ではボリュームゾーンが絶対的に違う。
「けどな、田口。お前は夢を描ける年齢だけれども、俺は夢を描けない年齢になってしまったんだ。夢のスケールは人それぞれかもしれないけれど、俺ら世代が言う夢というのは例えば温泉を掘るとか、豪邸を建てるとか…そういうものなんだよ。長くともあと10年の命で、これらが達成できるかもわからないし、それ以前にパワーがなくなってきたんだよ。」
お話は更に続く。
「田口は今28歳だろ?もちろん明日死ぬかもしれないけれど、長ければあと50年も生きる可能性がある。これから先、何年生きられる可能性があるかで、描ける未来は変わってくるんだよ。」
年齢的に若いというだけで地域の人に可愛がられ、若さを羨ましがれる日々に、僕はずっとずっと気持ち悪さを感じていた。
僕と同じように地域の人はみな、20代の頃があったし、30代もあった。日常の積み重ねの結果、現在では70代、80代になっている。ただそれだけのこと。
「若くていいねぇー!」なんて言われると、決まって僕は「みなさんにも若い時があったんだから、生まれた時代の違いだけですよ。」と返す。
老いも若きも、同じ人間だということを伝えたいのだ。
けれど、違った。
同じ人間でも、20代と70代では描ける未来が違う。
0歳にとってはあと80年。
10歳にとってはあと70年。
20歳にとってはあと60年。
30歳にとってはあと50年。
40歳にとってはあと40年。
50歳にとってはあと30年。
60歳にとってはあと20年。
70歳にとってはあと10年。
80歳にとってはあと…。
明日死ぬかもしれない…という生き物としての定めは、いくつになろうと変わらず存在するが、28歳の僕は50年先くらいの未来までは描けることができる。
つまり、明日死のうが、明後日に死のうが、現時点の僕の年齢から長くとも平均寿命まで生きるとしたら、僕には残り50年間というボリュームゾーンがあり、その中に人生のタスク・やりたいことを押し込めることができるのだ。
一般的には車を買って、結婚して、家を買って、子供を二人育てて…という保険会社が作ってくれるライフプランに沿って、50年間の中に誰もが"イイんじゃない"と認める人生のタスクを知らず知らずのうちに押し込んでいるかもしれない。
そのボリュームゾーンに何を押し込めるかは人によって様々であっていいはずで、本来は自由のはず。
僕の場合は相変わらず、10年先に達成していたいこと…なんてものは明確にはない。50年先なんてもってのほか。
けれど、明日、一ヶ月後、1年後、3年後くらいでやりたいことは山ほどある。
僕はせっかちだ。明日死ぬかもしれないから、やりたいことは早くやりたいのだ。
それに、今やりたいと考えていることが10年後もやりたいとは限らないからだ。
そもそも、僕に10年後があるかどうかも不明だ。
そういう意味で、おじいちゃんの言う「あと50年先まで未来は見れる…」というのは、知らないうちに僕には該当しないとして排除していたのかもしれない。
が、今では20代と70代にはボリュームゾーンに差が確実に存在するということを感じずにはいられい。
アップデートされていく、生きても良いと思える年齢。
寿命を必死に伸ばしてきた人類の功績は、太古の昔に不老不死を望み、人をミイラにしたり、生贄を捧げたりしたことの上にある。若さが保たれたままで永遠に生きられる命を望んで…。
テクノロジーが進化したと言われている現代でも、不老不死はまだ人類の手の中には無い。
それでも、『人生一回につき、長ければ80年間も生きられる』という、江戸時代の人が聞いたら泣いて喜ぶであろう夢のパスポートを僕らは生まれた時点で手渡されている。
しかし、平均寿命が40歳から80歳に伸びたところで、老いが留まることはなかった。
肉はなくなり、骨はスカスカ。しまいには自分が5分前に話したことを忘れて、再び同じことを話してしまう始末。
「あれから30年…」と綾小路きみまろの話に激しく共感し、爆笑する自分がいることに、気付き、「年老いたなぁ…」と感じる人も少なくないかもしれない。
人類が望んだ結果に近づきつつあるのに、平均寿命に近づけば近づくほど、世間から必要とされなくなるという残念な矛盾を抱える老人は何を思うのか…。
僕は精々60歳まで生きればいいかなと思っていた。
この計算でいくと、僕はもう人生の半分が終わりかけている。(マジで無意味な計算ですね。)
その背景には、たぶん親の背中があったと思う。
親が現在60歳前後で、働きながらも結構楽しそうに生きているからだ。
しかし、最近ではこの年齢が、「年齢層も含め、多様性あるコミュニティーの中に生きられるなら…」という条件付きで70歳にアップデートされた。
大鳥に生きる人達は70%が65歳以上であり、超高齢化社会の中に暮らしている。人口減少・少子高齢化を憂いていながらも、かなり楽しそうなのだ。下ネタとかしょっちゅう言うし、なんやかんや言うてバリバリ働いている。
70代でも楽しそうに生きている人がいるから、とりあえず自分は、70代まで生きるのも悪くないかなと思えている。
僕の感覚的には、80代になると本当に体が言うことを聞かなくなり、明らかに動きが変わってくる。それでも楽しい日々を過ごせれば、それこそステキなことだとは思います。
けど、自分のことで言えば、僕はそこまでは生きなくてもいいかなぁ…。と今のところは思っています。
かといって、自殺でもしない限りは自分で死ぬ年齢を選べませんが。
終わりに…
親から与えられた命。
「親より先立つのは悪い!」とはよくよく言われ、僕としてもそれは何とでも死守したいのですが、この先何があるかわからない人生。
その時々の直感で、生きていくのも楽しいんじゃないかと思うわけです。
それに、人生が40年から80年に伸びたから、人生は2倍も生きられるようになった。
だったら、人生を2回生きるのもいいんじゃないかと思うよ。
人生を前半と後半に分けてみてもええんちゃうか。
「40歳から新しいわたし、デビュー!」
みたいな。
こんなキャッチコピーの雑誌、ありそうじゃない?笑
ボリュームゾーンを感じながら未来を描きつつ、けれど明日、死ぬかもしれないという生物としての定めを背中で感じながらこれからも生きていきたいと思います。
せば、またの。
参照記事:狩猟デビューで本当に死にかけた。~マタギの世界はめちゃくちゃ厳しい!命懸けの熊狩りに参加してきました!~|ひろろーぐ
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