ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

過去10年間を振り返ってみたけれど、あの頃の自分が今の自分を全く予想できなかったように、10年先に自分がどこにいるかなんてわかるわけがない。

ども、田口(@tagu_h1114_18)です。

 

先日、NHKで僕のことを取材し、放送して頂いたことがご縁で、ディレクターの方がわざわざご挨拶に大鳥まで来ていただきました。

同い年なこともあって砕けた話をしていたのですが、何気ない会話の中で「田口さんは10年後、何をしていますか?」ということを聞かれました。

 

こういう問いかけは、かなり久々でした。

 

会社員として働いているころは自己啓発とか散々読みあさったし、セミナーも行きまくってたし、コンサルも受けていた。生命保険会社の知り合いの勧めでライフプランなるものを作ってみたりもした。

未来なんてわからないけれど、自分が想像しうる未来を書き綴っていたことを思い出しました。

 

改めて今、この問いかけをされたことで、ハッ!とすることは特別なかったのですが、しんみりと考えてみたくなりました。

早く確定申告を終わらせなければいけないのですが、どうしても手を走らせたくなって記事を書くことにした。

書き終えてみれば9,000字近くなっていて、過去最高の文章量になってしまったので、30分くらい時間に余裕がある時にでもどうぞ。

10年前。社会人に沢山お世話になっていた高校生でした。

10年前は、僕は18歳。

ちょうど高校を卒業する頃で、浪人生になることも決まっていました。

 

高校の頃から知らない世界に飛び込むのが好きで、好きでやっていたバレーボールも学校の部活だけでは飽き足らず、インターネットで社会人バレーのチームを探して、参加させてもらっていました。

 

大学生や社会人に囲まれながら週一回バレーボールをしつつ、練習が終わったら必ずと言っていいほど近所のファミレスでみんなで食事。何回おごってもらったことか、数え切れません。(サンデーサンとガスト、餃子の王将には何度もお世話になった。笑)

その他、カラオケ行ったり、誕生日パーティーをしたり、チャーハン対決をしたり、ホストの真似事をしてみたり、夜に運動会をしたり、ファミコン大会をしたり…。

 

上下関係がなく、とにかく仲が良くて、とにかく遊んだ。

 

“愛球会”というチームと、”North”というチームにはめちゃくちゃお世話になって、散々笑ったし、散々良くしてもらった。

感謝をしてもしつくせないほどに…。

年上の彼女ができたのも、この頃が初めてでした。笑

 

高校の卒業をした3月には、バレーのチームで出会った10個上の人と、大阪から静岡まで自転車で旅をした。ただただ富士山が見たい。理由はそれだけ。

片道3日半、往復1週間の旅。

 

膝が痛いだの、関ケ原を通る時はひたすらうんちくを言われてうんざりしていた時もあったけど、全体を通して本当に楽しい旅だったんですよね。

ユースホステルに泊まったり、カラオケに泊まったり、ファミレスで仮眠をとったりしながら、ひたすらママチャリで東へ向かった。

静岡の御前崎市では、訳わからんほどの暴風雨に見舞われ、しかも運悪く常に向い風。自転車をこいでもこいでも前に進まない…という謎の現象に心も体も苦しめられた。

 

ご当地の美味しいモノもろくに食べず、コンビニで買ったスナックパンやらスーパーのお惣菜やら…。ゴール地点の静岡駅では、ポムの樹というオムライス屋さんでオムライスを食べた。至福のひと時だったなぁ…。

帰りは妥協して、名古屋からフェリーにのって大阪に帰りました。

なんだかんだ良い思い出だったし、楽しかった。

勉強マシーンの浪人時代。

楽しくも濃い自転車旅行が終わり、浪人時代が幕開けしました。

高校3年の頃から通わせてもらっていた代々木ゼミナール江坂校(現在では閉校したとか)に通わせてもらった。

 

この頃の僕は、本当に勉強マシーン。

講師陣も教えるのが本当に上手で、「勉強しますか?人生諦めますか?」くらいのマインドセットの中、朝9時~夜9時まで予備校で勉強。その後家の近所のガストに場所を移して夜中1時頃まで勉強。

マジで鬼でした。要領が悪く、とにかく頭に詰め込むばかりの勉強だったので時間をかけまくっていました。

古典の望月先生、吉野先生、日本史の土屋文明先生、英語の富田先生、西谷先生は中でもお気に入りの先生でした。(雑談がクソおもろい人たち。)

頭は良くならなかったけれど、勉強に費やした時間だけは誇れる過去です。笑

 

あの頃の予備校の先生の言葉を思い出すと、まさに言った通りでした。

「この受験勉強の間ほど、人生で机に向かって勉強することはない」

「勉強し過ぎて死んだ奴は今までいない。」

 

社会人になっても勉強することは多々あるけれど、1年間のサイクルが勉強するor飯を食うor寝る以外がない生活は、今のところその時以外はありません。

 

それに、ガストでは地元の中学校の同級生がバイトしていたこともあって、お店の人にはいつも良くしてもらいました。ハーフライスとドリンクバーを頼んで、毎回300円会計。

サービスをして貰ったのも数知れず…。

 

本当に有難かったな…。

 

大学は、高校生のころから関西大学というところに行きたかった…のですが、夏ごろに同じ高校で一緒に?浪人していた友達に、「俺、日体大(日本体育大学)にいくから、お前も東京行くぞ!」と言われ、知らないモノ見たさでなぜかそのまま東京にいくことになった。

暗黒の大学時代。大学一年=奴隷というカースト制度を体感

19歳の歳に晴れて、法政大学に入りました。

浪人時代に丁度、妻夫木聡と柴崎コウが主演のドラマ『オレンジデイズ』を放送してて、見ていないまでも噂は聞いていて、超憧れだった大学生活。いや、キャンパスライフ。

 

サークルやバイトで人生のモラトリアムに花を咲かせたいと思っていた矢先、僕の奴隷生活が始まりました。

 

キッカケは今でも忘れません。

 

超テンションの高いヨット部の先輩に

「夏はサーフィン、冬はスノボー、でも全日本インカレ優勝をしたヨット部に入らないか?」

と言われました。

この先輩、法政二高という超体育会系な高校出身で、勢いとノリが半端じゃないのね。

(この誘い文句が完全にウソだということが後々になってわかるのだった。笑)

 

こんなことでヨット部の新入生歓迎会に行き、溺れるほどお酒を飲み、ベロベロの中、熱く語らえる仲間がいた。

丁度、サークルの新歓とか練習に行ったけど、なんか馴れ合いだったり、飲み会ばっかりの印象で「なんか合わないなぁ…」と思っていた時だったので、「ここなら全力で熱くなれるし、全力で楽しめる!」そう思った。

そうして入部を決意したことが奴隷の始まりでした。笑

 

毎週末に八景島シーパラダイスという、表向きはステキな遊園地&水族館でカッポ―のデートスポット。

けれど、僕にとっての八景島は、地獄のヨットハーバーだった。

八景島の中にヨットハーバーと合宿所があって、毎週末に泊まり込みの合宿形式で練習を行う。

4年=神 3年=貴族 2年=平民 1年=奴隷という、現代では考えられないほどの超カースト制度の元、雑用と叱咤の日々。

 

ヨットになんか、入部してからの3ヶ月間は乗せて貰えたけれど、それ以降、4年生になるまではレギュラーになることは愚か、予備兵としてちょこちょこ練習に参加するだけの部員でした。

 

仕事でヘマをやらかすと、「お前マジつかえねぇ!」と怒られ、同期がミスをしても連帯責任で学年全員が起こられる。仕事を要領よくこなす同期でさえも、統制という学年を統括するポジションにおかれ、同期のことについて散々怒られる。どんなことをしていても”怒られない”という選択肢は皆無なのだ。

食事の時間は10分、シャワーの時間は10分。シャリ当番というのがあって、下級生が主にあてがわれるのだけれども、部員全員のご飯を作ることもする。不味ければ、不味い!と先輩にキレられる。

 

秋になるとレースシーズンが始まり、神奈川県逗子市の葉山というところにお引越しをする。この時が死ぬほどハードで、週5日は葉山に籠りっきりで、先輩たちとアパートや一軒家の一つ屋根の下、狭い中で共同生活を強いられる。先輩がレースに集中していてピリピリしている…という理由もあり、毎日のように怒られるのだ。

コンビニに行ってはいけない、朝早く起きてヨットの下準備をしなければいけない、先輩より先に浜に行き、先輩より後に浜を出る。

朝から夕方まで走りっぱなしの雑用しっぱなし。

 

秋は学校に行くこともままならず、出席確認が無く、単位が取れやすい授業を選択しまくるしか方法は無かった。

精神的に追い詰められ過ぎて逃げ出す部員もいた。

 

いやー、今は全然そんなことなさそうなのですが、当時としては「今どきこんな部活あるの?!」というくらいの衝撃でした。

もちろん、楽しいことも嬉しいことも沢山あったし、学んだことも沢山あった。大学を超えたヨット部の仲間も沢山できた。(ヨット漬けの日々で、大学には友達が3人しかできなかったんだけど。笑)

 

けれどこういうのって、下級生のツラかったことの方が余計に覚えていて、しかもネタとして話になるんですよね。

 

上級生に上がるにつれて、カースト制の色が時代に合ってきたのか、徐々に消えていった。

卒業した先輩からは甘いだのなんだのってあったかもしれないけれど、そうせざるを得ない世代の人達だったと思う。僕自身も、カースト制は嫌いだったし。

4年になった時は、なぜか素人で入った僕が主将をやることになり、レギュラーになった。ヨットなんて全然上手じゃないけど一年間で上達した自負が、多少はある。

最終的な成績としては全日本個選(個人戦)で5位、全日本インカレで4位という、僕の今までの人生の中では考えられないほど華々しい成績を収めた。ひとえに、メンバーのお陰である。

 

しかし、僕が主将の時に一番つらかったのは、下級生部員が5人も辞めた事だった。

部の雰囲気だったり、諦めきれない夢があったりと辞めた理由は様々だったのですが、スポーツ推薦で入った人たちも含めて雪崩のようにいなくなったことのダメージは相当なもの。一度だけ練習中に心臓に痛みを感じたのもこの頃でした。少し休んだら良くなったけど…。

辞めて欲しくはなく、部員の自宅にまで足を運んだりもしたし、夜に語り合ったりもした。

けれど、どうにもならなかった。

引き止めようとはしつつも、「無理に引き止めることが必ずしも正解とは限らない…」と心の中で感じていたのは、僕が一般で入ってきたからだったのかもしれない。

ヨットをやらない人生にも、楽しい人生があるかもしれない…から。

 

今となっては良い人風なキレイごとばかり言えてしまうけれど、去りゆく後輩を見送れたのは、そうやって自分の中に落としどころを持っていくしかなかったのかもしれない…。

留年時代のるろうに生活。大阪就活⇒アキレス腱断裂⇒読書の鬼⇒フィリピン

「部活に没頭し過ぎて…」という言訳を盾に、企業の面接では留年の理由をなんとかかわしつつ、就職氷河期とやらに立ち向かい続ける2010年の冬~初夏。この頃には僕は23歳になっていた。

 

僕は、「就職で大阪に帰りたい!」と強く思っていた。

地元が好きだったし、大阪で良くしてもらっていたバレーボールのメンバーとまた遊びたかったから。

だから、6日上の社会人の先輩に無理を言って、一人暮らしの家に3か月余り、5,000円/月という格安料金で泊まらせてもらっていた。

 

先輩に随時就職のアドバイスも貰いつつ、大阪を中心に合同説明会、企業説明会、エントリーシート提出、面接も何社もこなした。エントリーシートは、50枚くらいは書いた気がする。

そこで何とか拾って貰った前職でもある京都の電子部品メーカー。

親父の背中を見て、「サラリーマンも悪くない…」と思っていたし、リーマンショック後のご時世だったので一生サラリーマンがいいかはわからないけれど、一度はしておこう。と思っていた。

 

内定が決まった夏、僕は右足のアキレス腱を切った。バレーボールでの練習中だった。

 

小さい時から大きな病気とかもしたことが無く、骨も負ったことが無かったが、いきなり切れた。

それまで、自分のことを無敵だと思っていたけれど、それが一瞬にして崩壊した。

 

大学一年の頃からお世話になっていたピザーラ梶が谷店に迷惑をかけまくりつつの、自宅療養。

この頃は、家からほぼ出られず、暇すぎたのでひたすら本を読んでいた。

読みやすい経済系の本(勝間和代さんや池上彰さんの本とか)とか、投資の本、自己啓発の本、営業の本などを読み漁った。普通に歩けるようになるまでの3ヶ月間で、100冊は読んだ。

この時の僕は、最近話題の”意識高い系”と呼ばれる部類に属していたような気がする。笑

 

JALみたいなデカい会社がボコボコ潰れたり売上を落としたり…というカオスな中で、「サラリーマンとして定年まで働く選択肢だけではヤバいんじゃないか。海外でも働けるような力を身に付けたい。そしてマーケットはアジアが開けていくんだ!!」そう思い、まずは現地に住んでみようと英語留学することを思いつく。

フィリピン留学は、当時も格安で、一ヶ月間で3食・ドミトリー付きで25万という値段だったので、仕事をする前に行く決断をした。

僕が行ったのはフィリピンのセブ島というところにあるCPILSという語学学校。語学学校

としての歴史が長く、日本人が割と少ないという場所だったことが決め手でした。

 

語学学校は本当に楽しかった。留学だけど、勉強も遊びもバカンス気分でした。

フィリピン人の先生も本当に優しかったし、授業も面白かった。「ヒロは日本人なのにオープンマインドね♪」なんて言われ、朝一番の授業以外はテンション高めで喋っていたし、先生は恋バナが好きで、お互いに好きなタイプなんかを語り合ったりもした。笑

 

現地に住んで、日常的に英語を喋っていれば、不思議と英語も喋れるようになり、先生や韓国人、現地の人とも苦なく会話を楽しめるようになっていった。

 

中でも、フィリピンのとある一人の先生とは本当に仲良くなり、留学中に家にも遊びに活かせてもらったし、兄弟とも一緒にご飯を食べに行ったりもした。当時はセブ島の中でも栄えていない(戦後の日本のような)ところに住んでいて、包み隠さずいろいろと話してくれた。過去のこと、家族のこと、仕事のこと、夢のこと…。

 

その心がすごく嬉しくて、お別れのときには強くハグことを覚えている。

今でもFacebookで繋がっているのが何より嬉しい。また会いに行きたいです。

悩めるサラリーマン時代。仕事ができなくて悔しくて、一人で号泣したこともありました。

僕は、入社する前から3年以内に会社の中国支社にいく。行けなければ会社を辞める、ということを心の中で決めていて、2011年の春に入社した。(会社としては本当に不利益極まりない最悪の社員だと思います。)

そんな心で仕事に挑みながらも、デキるビジネスマンにはなりたかった。

 

新入社員研修を終えて、東京営業所に配属になった。念願だった関西に住めないことに落胆しながらも、新人ながら4社も担当を持たせていただき、僕のルート営業が始まった。

 

飲食店などで触れてきた販売業、サービス業とは使う言葉が全然違って、BtoBのメーカー営業では知らない言葉がたくさん。最初は”ロット”と言われても、なんのことかサッパリ。トッポの仲間かと思っていました。笑

 

新入社員の中では割とデキる新人だったはずが、見積り作成も、納期管理も、社内営業もろくにできなかった。お客さんに怒られたり、上司とお客さんの板挟みにあったり。平社員レベルでは普通に抑えなきゃいけない自我をコントロールできずに胸がムカムカしまくり。

仕事ができな過ぎる自分に絶望したこともありました。

毎月中旬に、売上予測を計算するためにエクセルシートを記入しなければいけないのですが、これが何回やってもできなかった。上司に何回も説明してもらっても理解できなかった…。

それがすごく悔しかったんだと思う。

 

半分以上の社員が帰った夜8時頃、非常階段の踊り場で一人、号泣した。声を上げて泣いた。子供の頃以来くらいの大声で。自分が抑えることができなかった。(あんなに泣いたのはこれ以来、今のところありません。)

タバコを吸いに、踊り場にきた先輩社員にドン引きをされていたのも覚えているし、その日は夜の11時まで、上司が終電ギリギリまで仕事に付き合ってくれたことも覚えています。

 

そんな自分が嫌で、40万を払って個人的に営業コンサルも受けていた。(これは今までの人生の中で一番高い買い物でした。)高い投資だったけど、初めてリボ払いというものをした。

コンサルを受けていたのは3ヶ月~半年くらいで、月に2回くらいは担当者と会ってはマインドやノウハウを学んだ。

「営業にすることに自信がついたか?」というと、そうではないけれど、自分のマインドが変わったことは明らかだった。プライベートでは、誰にも押さえつけられないが故に超積極的になった。週末だけ”やりたいことをやれる自分”でいられた。自分の身になりそうなものには迷わず投資。本、セミナー、ワークショップ、飲み会…。

 

社内ではどうしようもない自分。

せめても、会社の外では活き活きとしていたかったんだと思います。

 

それに、ワイン会の石原さんとはこのコンサルの担当者を通じて出会った。(石原さんとは今も仲良くさせてもらっていて、石原さんの仕事もちょこっと手伝っているのだ。)

 

社会人二年目の頃は、やったことないことをやりたくて2012年のゴールデンウィークに人生で初めてヒッチハイクをした。

 

そのことがキッカケで地域おこし協力隊になっていく…。

(ここから協力隊になるまでのくだりは過去の記事で書いてあるので、ご興味あれば下記URLをご参考ください。

参考記事:誰にも言っていない、僕が地域おこし協力隊として山形に移住した本当の理由。|ひろろーぐ

10年前の自分では、今の自分がこんな風になるなんて予想もしなかった。けれど、空振りパンチを何百発も打ってきた結果、今に繋がっている。

人に支えられた10年間であった。

何かあったら大人が助けてくれた。ご飯をご馳走してくれたり、遊んでくれたり、一緒に旅をしたり、仕事をくれたり。

 

高校生の時は同級生や社会人のバレーチーム。

大学の時はヨット部の先輩。社会人バレーの仲間。ピザーラの仲間。

社会人の時は一年目にお世話になった上司や、ヒッチハイクで出会った萩原さんという仙人のような人。ワイン会の石原さん。

地域おこし協力隊になってからは、大鳥の人たち。庄内の人たち。

 

上記のエピソードには上げきれなかったけれど、もっと多くの人達に出会い、支えられて生きてきた。

いつも、僕の頼りない足元に道を示してくれた。

 

それに答えられているであろうか…。28歳になった今でも、疑問に思う部分ではある。

けれど、今まで受けてきた沢山の人の優しさや恩を、Pay Forward的な精神で、今まわりにいる人、これから出会う人たちに与えられるようにしたい。

 

それと、ふと考えてみると、18歳の浪人を控えた高校生の自分には、今いる場所なんて全く想像もしていなかった。あの頃は、「大学生になるんだなぁ…僕も。」くらいにしか思ってなかった。

 

全くもって予想もしていなかったことが、たったの10年間で沢山起きた。

その度にやることが変わり、関わる人が変わり、暮らす場所までも変わってきた。

 

振り返ってみれば、過去から今に至るまでのストーリーは綺麗な一本の線で繋げられるけど、細かくみてみれば空振りのパンチを何百発、何千発と打ちまくったがゆえに、今にたどり着いたとも言える。

 

僕はこの10年間の中で、自分の将来設計やライフプランを何度か立ててきたが、自分の狙い通りの人生にはならなかった。海外でノマドをしたかったはずなのに、現在はなぜか里山にいる。しかも、その現実を前向きに受け入れている自分がいる。

 

自分の未来は頭で思い描いたとおりには中々いかない。

 

ベクトルは変わったけれど、自分が感じるままに、信じるままに動いてきた結果、今に至っているから、「そんな人生も悪くないよね」と思えてしまう。

「10年後、田口さんはどこで何をしているのか?」⇒「そんなもん知らん。」

サラリーマン時代に、10年先のことを考えたことがありました。あの時は確か、

「世界を旅しながらお金を稼ぎ、暮らす人」と考えていました。海外ノマドってやつでしょうかね。

なりたい自分像から逆算をして、いつから語学留学いって、いつからワーホリにいって、いつから何らかのビジネスを始めて…なんてことを考えていました。

 

けど今は…。

10年先はどうなっているかはわからないけれど、これからも大鳥にいたい。

 

けど、どこかのタイミングで、1年間くらい海外を見て回りたいとも思っている。

これは、打算的な理由はさておき、根本には「世界を見ずに死ぬのは嫌だから。」という理由。海外に行ってこれがやりたい!というのも、今のところは特別無い。

 

僕が今、描いている未来って、この二つくらいのモノで、起業することでも、金持ちになることでもない。過程として、起業することはあるかもしれないけど、とりあえずはフリーランスっぽい感じでいきたい。

 

あ。でも、結婚はしたいよ。相手いないけど…。笑

こんな僕でも良いという人がいれば、嬉しいな…。

 

未来のやりたいことを考えてみればボンヤリは浮かびます。

一方で、未来もやりたくないことは、明快に浮かびます。

明らかに近い将来ロボットがやるような仕事とか、ラインで単純作業しかできない工場勤務とかは無理です。一瞬で飽きちゃいます。

過去に経験してきた嫌なことは極力排除しつつ、自分の未来はボンヤリとしている。

 

僕が大鳥にいる理由もそれなりに明確なので、その軸に沿って日々活動しているつもりでいます。けれど、この延長線上に何があるのか…。マジでわかりません。

 

日本社会の未来予測はしたがるのに、自分の未来予測は全然できません。笑

 

という事で、「10年後、田口さんはどこで何をしていますか?」という質問に対する答えは、「そんなもん知らん!」です。

終わりに…

あー、すっきりした。

 

こんな長文、読む人いるのかな?

読んでくれていたとしたらありがとう、ここまで読んでくれて。

もうすぐ終わるからね。

 

この頃は生死について言葉にするし、考えるんです。

 

僕が小さい時に海でおぼれかけた。その時は勇敢な兄貴に助けてもらった。

昨年4月に初めて熊狩りに行った時も死にかけた…。その時は勇敢なマタギに助けてもらった。

そう考えるとこの10年間生きてこられたことは奇跡に近いのかもしれない。

 

僕は、映画『Stand By Me』が好きです。

 

幼いながら、4人の仲間と冒険に出掛け、家から遠く離れた場所でキャンプをしたり、喧嘩をしたり、大人の汚さに触れたり、人の死に触れながら歩き続ける。

 

どんなに歳を重ねても、穏やか・平和な世界だけで生きることができず、胸のワクワク・ドキドキを求めて旅に出る、冒険をする。時には人間関係のトラブルもあるし、身内の死もある。それでも、お酒を飲んだり、踊ったり歌ったりして、誰かと同じ時間を楽しめるから明日も生きられる。

そんな、当たり前だけど忘れがちな日常に気付かせてくれる映画だと思います。

 

“明日死ぬかもしれないのだから、今日も楽しく生きたい。”

 

日々、そんなことを自分に言い聞かせながら人生を続けていきたいです。

 

Stand By Me、名作ですよ。

 

せば、またの。

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