森への2つのアプローチ「森側の人と、人側の人」
ども、田口(@tagu_h1114_18)です。
つい最近、山歩きが好きな方と、林業従事者と、石に詳しい方と、民俗学をかじった僕と…みたいな面々で一緒に森を歩いた時に、それぞれが持ちうる知識や気になるポイント、感性が違って。それがとっても面白かったんです。
そんな出来事もあり、以前から僕なりに感じていた森へのアプローチの違いを文章に落とし込んでみました。
あまり自信が無い考察ですが、ご一読いただけると嬉しいです。
”森側の人”と、”人側の人”
僕は”森側の人”と、”人側の人”と表現しますが、同じ山や森を見て話をしても、価値観としてどこに重きを置くか、が違うんです。どういうことか…。言い回しが難しいのですが、例えば、虫の目を持って、人間社会を見ることと、人の視点から虫を見ることの違いとでも言いましょうか。虫の部分は鳥でも木でも岩でもモグラでも、自然の中にいるものであればなんでもいいのですが。
とにかく森の中にある生体を見るときのアプローチが2つあるような気がします。
”森側の人”の持つ価値観・感性は、Functionが中心。つまり、その木々が、葉っぱが、虫が、動物がその森の中でどういう役割を果たし、何を教えてくれているのかという視点に重きを置いている気がします。
ブナ林は自然のダムと称されますが、雨水を土に貯え、調節しながら沢・川へと流してくれる。ブナの実がたくさんなる年の翌年は、ブナの実が枯渇する。イワナが棲む川は、水がきれい。小魚を餌にして暮らすカワセミ。
ピンとくる例えが少ないのは僕の知識が希薄なせいですが、森にある植物・動物・土・水。それらがどんな風に機能し、森を守っているのか。その森を維持するために私たちがどのように関わったらいいのか…という視点で森を見ているんじゃないかなと思います。
僕はこういう方を勝手に”妖精”と呼ぶのですが、一緒に山に入らせてもらうと、ブナの木に耳を当ててみたり、葉っぱの形を比べてみたり、カエルをゆっくり持ち上げ、写真を撮ってゆっくり離してあげたり。森と会話している感じ。僕にない知識・感性を持っていて、とても面白いし勉強になります。
一方、”人側の人”の持つ価値観・感性はUseが中心。自分たちの生活の維持し続けるための森をどう利用したらいいか、という視点に重きを置いている気がします。あの山菜は何に使えるのか。あの木は何の材料になるのか。あの石は砥石として使える。森にある資源を使うこと。
山に暮らしてきた先人たちは、今年も、来年も山に暮らしていく前提であり、山にある資源を10年後も50年後も100年後も利用できるように配慮する。山菜を根絶やし採ってしまえば、自分たちが暮らせなくなる。狩猟でも、どの程度個体数を把握していたかはわかりませんが、全滅させないように獲る。共同で山道を整備しなければ、安定的に食糧を採集することが困難になってしまう。林業のことはよくわかりませんが、木々の伐採も間伐に留めなければ、森が死んでしまう。自分たちが利用すること前提で森を見ていますが、長い年月の中で”利用の節度”というのを共通認識として培い、結果的には森がこれからも生き続けらるように配慮している。
終わりに…
FunctionとUse。アプローチは違えど、どちらもこれからも森を維持するために僕たちがどんな形で関わればいいのか…というところに行き着く気がします。とは言え、どっちがどっちって分けなくてもいいような気もするし、双方を持ちうる人もいると思います。
僕らが生きるためには大前提として自然が必要。山や森、川や土が必要。それらを利用する知恵も、いたずらに利用しないための知識も、そこに身を置きたいという感性も。自然に生かされ続けてきたからこそ、身に付けた賜物なのかなと思います。「わからないことは山に聴け。」じゃないけど、先行きが見えづらい昨今でも、森の声を聴き続けること、利用し続けてきた先人の知恵を借りることで、この先も変わらない何かを掴めるかも…。理由も根拠も明確なものはありませんが、何となくそう思います。
最後に、この考察に関連して参考になりそうな本をいくつかご紹介しておきますね。
せば、またの。