ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

地域おこし協力隊を卒業。熱が冷めないうちに本音や想いを書き留めておきます。

2016/06/02

ども、田口(@tagu_h1114_18)です。

地域おこし協力隊としての任期が2016年4月いっぱいで終わりました。

 

長いようで短かった3年間。

 

思えば、『自分の人生を変えたい…』みたいな気概を持って始めた地域おこし協力隊。

前職の尊敬している先輩から、「3年で結果出せよ!」と背中を押されてから早3年が経ったが、僕の掌には何か残っただろうか。

タキタロウ調査も地域の人と取り組んだし、山菜やキノコの物販もやってみた。講演の依頼があればお喋りもしたし、ワークショップにも何度か挑戦した。ナリワイプロジェクトではゼミの講師なんて大役をおうせつかったし、最終年度には大鳥民俗誌『大鳥の輪郭』も作った。

そうこうしているうちに時は過ぎ、5月からは個人事業主?として再スタートを切ることとなった。

だけど、何かが大きく変わったわけではない。昨日も今日も、明日も、毎日24時間がぐるぐる回っていて、その中で”何をするか”でしかない。土曜も日曜も祝日もない。ただそこにあるのは季節の移ろいと、決まった日に催される行事。サラリーマンの頃に夢見ていた個人事業主という立場は、現実になるとあまりにも平凡で、沸き立つ感情も特にない。何もしなければ世間から忘れられていくだけ。それでも、自分の人生は自分で責任を取りたい。という思いで何とかこれからも山奥で暮らしていきたいと思う。

 

これからが一般市民であり、これからが本番である。

準備不足は否めないし、独り立ちするには実力不足な感じもある。だから、これからはブログで悲鳴に似た言葉を何度も吐く可能性がありますが、そんな僕でも見守ってもらえると嬉しいです。

 

さて、一応節目として、地域おこし協力隊としての任期が終わったので、3年間過ごして感じたこと、考えてきたことを幾つかコラム形式で書いておきます。

7000字弱と、少々長めの文章なので、時間があるときにゆっくり読み進めてもらえると嬉しいです。

 

地域おこし協力隊と研修会

地域おこし協力隊としての成功事例を見れば、身近なところでは朝日町の佐藤恒平さんもそうだろうし、西日本にはゴロゴロいるよね。僕の時代でいえば、美作の上山棚田団とか、香川県小豆島のポン真鍋さんとか。僕は山形県内のメディアには割と出てきたほうだと思うが、全国のスター選手にはなれなかったし、今になって思えば、そんなことにはなってもならなくてもどっちでもよかったと思う。地域おこし協力隊って不思議で、着任しただけでなぜか地方メディアから取材依頼が舞い込んでくる。まだ何もしていないし、何も残していない、あくまでサポート人材である僕たちが表に出すぎるのはどうなの?と疑問に思う隊員も多いと思うが、多分その通りで、そこに時間を費やしすぎるくらいなら地域での仕事に汗を流した方がいいのかなと。協力隊として有名になる必要はあまりないのかなって思う。

情報収集は3年目に入ってからほとんどしなくなっちゃったし、他地域の協力隊の動向にあまり興味を持たなくなった。僕自身は地域おこし協力隊だし、一年目は研修会も行っていたけれど、結局は異業種交流会の名刺交換と同じで、出会ったところでまともに語らう時間もほぼないし、物理的な距離が遠すぎて二度と会わない人たちが殆ど。

もう一度会いたいという人を上げるとすれば、2014年の狩猟サミットの時に偶然会った愛知県新城市の鈴木タカヒロくん。彼の活動は面白そうだし、ひたすら攻めている。というかボードゲームばかりしている。いつか新城市に行ってみたいし、山形に来る機会があったら鶴岡にもぜひ立ち寄ってほしい。鈴木くんのブログ:takahirosuzuki.com

もう一人は新潟県村上市のスズキジュンコさん。偶然にも大鳥と県境を挟んでお隣の山熊田と深い関わりがあって、2015年度は3回ほどお邪魔させていただいた。また遊びにいきます。山を越えて…。スズキジュンコさんのブログ:さんぽさんぽく

 

話が少し脇道にそれた。

僕が協力隊の研修会に出たくなかったのは、地域によって事情は違うし、人によってやりたいことも熱量が違う。それに手を取り合って活動するのは地域の人とがメインだから、協力隊同士で何か一緒にやるってのはほぼない。そういう意味では、福井県南越前市の地おこ荒木さんがやってる『流動創生』事業は斜め上をいっててオモロイけど。協力隊の繋がりを求めたくなるのは自分自身も地域に溶け込めていない一年目くらいのもんじゃないかなって思った。それに、あれだけ巨大化した「地域おこし協力隊」という括りの中での研修会では、気の合う人はなかなか探せない。一年目に明治大学の小田切徳美先生の話を聞いたときは目から鱗だったけど、それ以外の人の話は覚えていない。研修会自体に価値がないとは思っていないけど、目的意識がしっかりしていれば2年目以降は研修会には出なくていいと思う。あくまで僕の場合は、ですが…。

 

大鳥に来た頃のこと

3年前の今頃は、雄大な自然に囲まれ、自宅の傍を流れる東大鳥川を見ながら散歩をしてた。初めて会った村人は三浦朝代さんという人で、90歳を超えるおばあちゃん。

背中には”テンゴ”というPPバンドで編んだ籠を背負っていた。その中身は漬物石。背中に重心が引っ張らるほうが歩きやすいんだとか。衝撃だった。26年間で、石を背負って歩いている人を見たことがなかったから。

 

近所に住む旅館朝日屋さんは、僕が暮らす家の家主。家周りのことをいろいろ面倒見てくれる。「ご飯を食べないか?」と今でも頻繁に声をかけてくれる。今までに受けてきた恩が多すぎて、もはや僕の人生だけでは返せない。家で一人、ご飯を食べることが寂しいと思うことは今ではかなり少なくなったが、時に誰かと一緒にご飯が食べられる。あわよくばお酒も一緒に。歩いて1分の距離にそんな人たちがいることがありがたい。

 

大鳥にきたばかりの僕と、毎晩のように晩酌に付き合ってくれたのが嶋尾さん。20年前に外から来た人で、大鳥で木の彫刻を作ったり、作詞をしている。着任してから2週間くらいは毎晩家にお邪魔してお酒を飲ませてもらって…。

あまりにも僕が頻繁に足を運んでいるのを見かけたからか、地域の人からは「あの人は変わった人だからあまり近づくな…」なんて言われたことが何度かあったけど、それを聞く度に僕はキレていた。「人付き合いを他人から制限しようだなんて…。どんだけ暇やねん!」みたいな。

今になって考えると2週間も毎晩とか、大迷惑をお掛けしていたし、地域の人が言った意味も少しは分かる。だけども、先に移住してきた人がいるというのはとても大きかった。やっぱり同じようなことでつまずいているし苦しんでいる。それを共感できる人がいるかいないかというのは大きいと思う。

 

大鳥の自然と呼吸、風景の消化。

大鳥にきて最初に感動したのは川。川の水が透明すぎて、しかも飲める。東京の水よりはるかにうまい。それと、夜になれば無数の星がハッキリ見えた。徳永英明が『未来飛行』という唄で、「いつの間にか大人になって、次の場所にかけてくだけで、心休めて空を綺麗と言えない。時が僕に教えたものは、忙しさに負けちゃいけない。」と唄っていて、この歌詞が少し沁みた。

都会人が見る山はどの景色も同じで、草木の名前も、虫も魚も、知らない。山というのは登山道がありきで、岩や土、蚊などの虫たちが行く手を阻む、山道。そのくらいの認識。

だけど、山菜やキノコ、虫、魚など、食べられるものを山で見つけられるようになると、山の見え方・捉え方が少しずつ変わっていく。どんな道を通ればキツクて、どんな道を通れば楽なのか。そんなことを少しずつ、覚えていく。

 

地域の人たちはみんな毎日、同じ景色を見ているのに、飽きない。自然の家での作業の一休みに、地域のおばあちゃんがコーヒーを飲みながら「紅葉がきれいだね。」と言った。たぶん、毎年同じことを言っているのだと瞬間的に悟った。それでも今年も言うのか…と。たぶんきっと、風景を消化してるんだと思った。毎年見ている景色に毎回感動しているんじゃなくて、自分の中に風景を落とし込んで、落ち着いている。また頑張ろうって気概を山からもらっている。そんな風に僕には映った。

 

熊狩りと滑落。死ぬことの恐怖と生きる実感。

2014年4月。生まれて初めて行った熊狩りでの帰り道に、滑落をして死にかけた。

足の震えが止まらなくて、声が出なくなった。こんな経験は初めてだった。集落に帰ってきてからもまともに歩けず、声も出なかった。「もうだめだ…」と思う瞬間も、走馬燈もなかったので、本当の意味で”死”が目の前に訪れた訳ではないかもしれないが、20代若手でも「あっさりと死ぬんだな」という世界を、自分の中で当たり前のこととしてとらえることができた気がする。再び、死が予感できる出来事が起きた時は、僕の足はきっと震えるし、声も出なくなる。命乞いなんて、本当に死にそうにならなかったらできないと思う。

最近は”ライフスタイル”とか”終活”とかって、生死を連想する言葉が日常で使われているけど、そんな情報よりもよっぽどシンプルで分かりやすかった。

 

地域おこし・地域づくりなんて何十年も前からやってきた。

地域おこし協力隊はイベントとか物販とか、何かをしなきゃ…って思わされてる。誰に言われたわけでもなく、ただ何かの思い込みで…。何もしなければ衰退の一途をたどるし、何かをすれば人が訪れてくれたり、知ってくれたりするかもしれない。だから新聞やテレビにも出るし、特産品もゆるキャラも開発してみる。

だけど、2014年11月、山形県南部へと地域の人たちと研修に行った時のこと。

「われわれは昔から地域づくりだなんだと言っていろんな事業をやってきた。だけどもう80歳にもなったし、イベントはそんなやりたくない。それよりも毎日をただ楽しく過ごしたいだけなんだ…。」

そう言われて、改めて地域づくりってなんだろうって考えた。

地域内外にむけて何かを仕掛けることが地域おこし協力隊のデフォルトになってしまいがちだけど、それはきっと違う。地域をじっと見つめることだって、解釈を変えてみることだって、目の前の現実と寄り添うことだってきっと、地域おこし協力隊として大きな意味を持つ仕事なのかもしれない。

 

地域おこしとは何か。

僕は地域の文脈で講演を頼まれると、『地域おこしとは何か?』というテーマで5分ほど話をすることがある。若干30前の若者が地域づくりを語るには経験がなさすぎるのはわかっている。ただの一個人の持論でしかない頼りないものだと思ってみてほしい。

僕は、地域おこしとは『地域の維持を前提として変化していくこと』と定義している。

地域というのは昔から永久不滅的に存在してきたのではなく、その土地に住むのに都合が良いから先人がその土地に住み着いただけであって、都合が悪くなったら村がなくなっても仕方がない。というのが大前提としてある。刹那的だが、そう考えるほうが気が楽だ。

だけどもし、地域の人が「死ぬまではこの地域で暮らしたい。」「この地域を息子・娘世代に残したい。」といった思いがあるならば、意図的に処置(事業など)を施すのは有りだと思う。自治体の助け舟を利用することもできるが、現代の資本主義社会の中では自ら稼ぐことが基本となる。そう考えたときに、社会から必要とされるために、貨幣を獲得するために時代に合わせて変化し続けなければいけない。

しかしその起こす変化は、地域の維持を前提とする。言い換えれば、これからも地域で変わらず暮らしていくために変化させていくということ。だから、地域にとって大切なものは何か?と、地域がなくしていっていいものは何か?を考える必要がある。

僕なりの考えでは、共同体意識をもたらす結・共同作業、行事・神社・山の神信仰などは可能な限り残していくべきだと思う。共同作業や結など、個人主義が進んでいる現代で育った若者にとっては面倒な手続きも多いかもしれない。しかし、自らの生きる糧にもなる山林・田畑などを守る知恵として、共同で作業を行ってきた。共同体意識を強めるため、共同体を崩壊させないために、神仏にも祈りを捧げるし、飲み会も頻繁に行われてきた。こうした活動は、いざという時(天災など)に助けてもらうために、日頃から恩を売り合う行為だと、宮本常一の本で表現されていたが、現在のじいちゃんばあちゃんを見ていると、その名残を感じる。機械化が進み、消防や警察も進化した現代では、いざという時のための恩の売り合いや、神に手を合わせることも必要ないかもしれないし、昔の概念をそのまま踏襲するのも違う。だけど、なんて言っていいかわからないけど、”共同”というのがまるっきし地域の中から抜けてしまったら、僕は大鳥をそこまで好きにはならなかっただろうし、地域に暮らす楽しみが少し減るかもしれない。同じ地域だからといって必要以上に接触する必要はないけれど、昔からやってる行事だから…と言って、年に数回顔を合わせることは悪いことではないと思う。

反対に、技・知識・道具・仕事は時代の流れの中で変化してきた。つまりこれからも形は変わっていくと思う。(観光サービスや博物館などの側面で意図的に歴史的・民俗的な風景を残す方法もあるが…。)

 

メディアとの関わり。

僕はこれを2年目から嫌というほど考えさせられた。

少々エッジのきいた言葉を使っていたからだと思うのだが、僕はテレビや新聞から取材依頼を受けることが多かった。無名の人間の言葉を拾い上げてくれるのはありがたいし、僕が話すときは必ず大鳥が背景にあるので、少しでも大鳥のことがPRになれば…と思って取材を受けていた。取材依頼の内容としては地域おこし協力隊としての活動が殆どでしたが、タキタロウ調査の時も結構依頼がありました。

だけど、わかってはいたけど、それがどのくらいの人に届いて、どのくらいの人が大鳥のことを知り、足を運んでくれたのかはわからない。

取材対応は経験上、新聞などの紙媒体なら2時間。テレビなら半日は拘束される。無償でお願いされることが殆どだけど、ハッキリ言ってそんなに暇じゃない。取材する側は、しつこさがなければいい記事や映像は撮れないと言うし、多分そうだと思うのだけど、取材するなら時間はある程度決めて、メリハリをつけてほしい。ダラダラとボランティア活動はしたくない。

ただ、この人に依頼されたらできるだけ受ける方向で検討しようと思う人がいる。

地域の声を含めて真摯に受け止め、番組や記事に反映してくれた人。「来ないだろうなぁ~」と思いつつ誘ったイベントに、取材もあまり関係なく参加してくれた人。同年代で汗をかいているのが手に取るようにわかる人。個人として取材を受けている僕としては、会社の大小など関係なく、やっぱり取材者の人となりが一番大事で、「この人いいなぁ~」と思えるメディア関係の人に何人か出会えたのは幸いだった。

反対に、この人からは受けたくないという人もいる。美味しいところだけ貰おうとする姿勢とか、欲しい情報だけ吸い上げようとする人、ろくに下調べせずに取材に来る人。こういう人たちからは依頼があっても受けたいとはあまり思わない。

 

あと、タキタロウ調査についてはキー局からの取材依頼がありましたが、ほぼ断りました。バラエティー番組で取り上げようという形が多かったのですが、どうも肌に合いませんでした。どこの局か忘れたけど、「お金出すのでもう一回調査に行ってください」と言われたことも…。また、今年の冬に放送されたキー局の昼番組でタキタロウについて放送されたことがありましたが、内容も扱いもあまりにもひどかったので絶望しました。僕含めて地域の人たちが費やした取材対応にかけた時間を返せ…と。もう一度言うが、田舎の人は暇じゃない。

あー。こんなことを言うからメディアの方々が僕から遠ざかっていくのでしょうね。笑

僕の中ではただただメディアを毛嫌いするのも違うと思うし、だけども言われた通りに迎合するのは危険だし時間を無駄に過ごすことも多々ある。無償で受けるならせめて、交換条件としてイベントとかを宣伝してもらえるように交渉しきゃですね。

 

終わりに。

とりあえずつらつらと思うがままに書いてみたが、まとまりがある文章だとは思えない。

協力隊といっても光と影は当然ある。研修会については少し愚痴っぽいことも書いてしまったが、地域おこし協力隊になって本当によかったと思っている。途中、半公半民という立場が嫌で、辞めたいと思ったことがあったけれど、なんだかんだ最後まで続けていました。そして、大鳥でやるべきこと、やりたいことを幾つか見つけました。

大鳥という場所には、生き方としての手本となるような、背中を見ていたくなるようなおじいちゃん・おばあちゃんがたくさんいる。そういう人たちがいる環境で、これからも自分を鍛えていきたい。まともな仕事にはもうつけないと思うけど、そういう生き方も良いんじゃないかって思う。

多分、僕の生き方は広く一般的ではないかもしれないけど、誰かにとって、励みになったり、足を動かす第一歩になってくれたら嬉しい。

書くことは続けていくので、今後ともひろろーぐよろしくお願いしますー。

最後に、任期中に書いた個人的にお気に入りの記事を集めたエントリーがあるので、よかったらそちらもどうぞ。

参考:協力隊の任期中に書いた、個人的に好きな記事10選。|ひろろーぐ

 

せば、またの。

-地域おこし協力隊

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