ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

地域おこし協力隊は責任と覚悟をもって受け入れる。それに、地域での地道な活動の繰り返しで応えていく。

2019年3月21日に、山形県鶴岡市にある慶應先端研究所レクチャーホールにて、「地域未来フォーラム~地域多様性でいこう~」が開催されました。地域づくりの現場では世代や地域を越えて折り合うようなプロセスが必ずといっていいほど必要ですが、その経験知の共有を目的として、現在進行形で活動している合同会社とびしま、朝日地区南部自治振興会、鶴岡市大鳥地域の3地域からトークセッション形式で聞かせていただいた。

ここではセッション③で、「世代を越えた共働」と題し、鶴岡市大鳥地域の工藤悦夫さん、田口比呂貴さんに、大鳥地域での取り組みや、現在に至るまでの地域での出来事などを伺いました。

※この文章は、本イベントの企画者でもあるSukedachi Creative 庄内が執筆をしています。

登壇者プロフィール

鶴岡市大鳥地域

工藤 悦夫さん <元 自治会長>(写真右)

1942年生まれ。出生地である大鳥地域でパルプの木伐り、鉄工業などを経て、現在は農家、茸の栽培、狩猟/採集、樵など、狩猟、採集、茸の栽培、農家、樵などの山仕事を主な生業とする。冬期間は除雪のオペレーター。自治会長も8年勤めた。山形県ネイチャーゲームの会、会長という顔も持つ。

 

田口 比呂貴さん <元 地域おこし協力隊>(写真左)

1986年生まれ。大阪府出身。法政大学を卒業後、東京で2年間のサラリーマン経験を経て、鶴岡市の地域おこし協力隊として大鳥地域へ。3年目には民俗誌『大鳥の輪郭』を刊行。任期後も大鳥地域の土建業、自然体験学習サポート、事務、野良仕事をしながら、狩猟/採集、民俗調査、イベント企画運営を行う。"大鳥てんご"という山の恵み通販も運営している。

ファシリテーター 西直人さん

2006年リードクライム株式会社を起業。主たる業務は、まちづくり・観光・環境教育に関するコンサルティング、計画作成、ワークショップデザイン、ファシリテーション、技術者・指導者の養成など。杏林大学観光交流文化学科「イベント・コンベンション論」「ファシリテーション論」講師。2016年、鶴岡に移住し、仕事場を庄内と東京のダブルローカルにして3年目。

大鳥地域の概況

  • 朝日村(現 山形県鶴岡市)の最南部に位置し、最寄のコンビニまでは車で30分。
  • 標高270m、積雪は3m前後、ブナ帯が広がっている。
  • 人口70人 高齢化率60% 若手(70歳以下)15名程度 移住者6名
  • 集落は繁岡、寿岡、松ヶ崎の3つがある。
  • 山菜、茸などの山の幸が豊富。熊狩りなどの狩猟文化も色濃く残る。
  • 大鳥自然の家(自然体験学習施設)、タキタロウ館(観光施設)、タキタロウ山荘(山小屋)などがあり、地域の人が管理運営をしている。

 

大鳥の紹介

田口さん

大鳥地域のこと、もしかしたらご存知かもしれませんが、庄内平野の山手の方。結構な山の中にあります。里山の原風景みたいなものが広がっていまして、標高は270m、積雪は3m前後ということで、今年も一軒あたり大体3回から4回ぐらい屋根の雪下ろしをしています。地域の周りは杉もありますが、少し奥に行けばほとんどがブナ、ナラ、イタヤといった植生があり、熊とかカモシカ、ウサギとか。イノシシが今年から出始めましたね。とか、ニホンジカも出始めましたね。そういった野生動物と共にムラの人たちが暮らしているというようなところです。春は熊狩りにいきますが、それが終われば山菜採りと田んぼの準備が始まり、秋には木の実やキノコ、そして米の収穫。冬囲いをして除雪、雪掘り&狩猟といったところが山のライフサイクルとしてあって、それ以外に土建業といった仕事があります

その他に、タキタロウ館という観光施設があります。釣り堀があって、食堂や物販、キャンプ場の管理もやっている。それに、タキタロウ山荘という朝日連峰の中腹にある大鳥池というところの畔にある山小屋があって、そこも地元の方が管理していると。また、大鳥自然の家という元小・中学校を活用して自然体験学習施設を作った。そこでは魚のつかみ取り体験とかうさぎの巻狩り体験、鴨の解体をしようというイベントもやっています。こういった事業を大鳥でやっています。

 

人口推移と大鳥のあゆみ

現在の人口は70人ですが、僕が大鳥に住んだ6年前は86人いました。ここ6年で、16人が出たりとか亡くなられたりとかした。高齢化率が60%、それに70人中6人が移住者です。それは最近移住した人ばかりでなくて、ここ20年ぐらいの流れの中でポツポツと移住してくる方がいたと。70歳以下の若手と呼ばれる方は大体15人ぐらいいるのかなというところです。

付け加えて、大鳥の人口推移とその時々でやってきたホットトピックスをお話しすると、1960年、戦後20年ぐらいの時は人口が1445人もいました。なぜかと言うと、大鳥に鉱山があったからですね。銅・鉛・亜鉛というものを取っていて、外から沢山の人が働きに来ていた背景があります。それが一番の最盛期で、そこから右肩下がりで減っていき、1979年、昭和54年に大泉鉱山が閉山するんですね。そこに住んでいた、ヨソから働きに来ていた人たちが村から出て行き、枡形という山奥の鉱山集落がなくなり、鉱山で働く村の人が多少いたのですが、新しい仕事を探さなきゃいけない、みたいな。そういったインパクトがあった。その後、1980年に朝日スーパー林道が開通。大鳥から新潟県村上市へ抜けられる林道ですね。1983年に大泉小学校が閉校となり、その7年後に大鳥自然の家ができた。それと同時期にタキタロウ館というものもできてくる。ここで一つ言えることは今、「人口が減ってヤバいよ」とか言っているんですが、地域の先輩方も農村から人が離れていくってことに当然気付いていた。どうにかして自分の地域に雇用を作ろうという取り組みをやっていた時期があるんですね。それが大鳥の場合はこういう事業だった。それから時を経て20年。大鳥地域づくり協議会という、半分、地域おこし協力隊の受け皿組織みたいなものが立ち上がり、その1年後に地域おこし協力隊ということで僕を含む2名が配置されました。任期は3年ですが、終了後は2名とも大鳥に定着した。2018年には既存組織の解散と統合、というものがありました。

最後に、繰り返しになりますが、現在の人口が70人で40軒となっていて、もれなく飛島と同じ状況という所では、多くの農山村がこう言う状況にこれから直面する中で、何ができるのかという話もありますが…。それはさておき、悦夫さん自己紹介をお願いします。

 

工藤さん

私は大鳥で生まれて、大鳥で育って。75歳です。75年も生きてきた。もういいのかなと思いながら、こういう若手に誘われて今日はやって参りました。今、私が力を入れて頑張っているのは、日本ネイチャーゲーム協会の山形県の理事長、そして庄内ネイチャーゲームの会の運営委員長を仰せつかっておりまして、そしてうちの団体、県の方から環境教育学習支援団体に任命されて、今2年目になっています。ちなみに田口君からも資格を取ってもらって、今自然の家の中で子供達を相手に色んなゲームを指導してもらっております。ということで、このぐらいでいいんでねか。

 

西さん

早速、悦夫さんに聞きましょうかね。まずは”世代を超えた共働”ということで、まさにこの田口さんとかヨソから入った人が自治会長するようになった現在の取り組み以前のお話を聞きたいのですが。実際この20年だけでも人口が半分に減っている。その理由って大鳥の場合はどこにあったと思われますか?

 

工藤さん

やっぱり、人口が減ったのは大泉鉱山が閉山なったことだな。もともと昔から大鳥の地区というのは現在の戸数くらいだった。だけど、大泉鉱山の最盛期でドンドン人口が増えて、学校も増えた。小学校も中学校も分校もあって。私の同級生、ひとクラスで33人もいた時代があったんだな。そういう時代があって、今度、鉱山が閉山になって、鉱山で働いた方がたは全部青森・秋田の方に帰って。残されたのは本当の昔からの大鳥の住民だけ、ということだと思います。

 

西さん

ずっと減っていく中で、多分その地域づくり協議会の前も人口が増えるためとか人口をキープするための取り組みをされたと思うんですけれど、その辺が言える範囲でうまくいかなかった理由とか、続かなかった理由。地域づくり協議会も協力隊が入って移住者がいたりしますけども、その前の取り組みについて少し触れてもらう事ってできますかね?

 

工藤さん

地域づくり協議会というのが立ち上がったわけだけども、その前は集落対策事業っていうのがあって。「限界集落(大鳥)をどうするか」っていう時に、市の方からの協力隊の話があって、それにいきなり飛びついたのが私です。よそから取られちゃうから、って手をあげたのが私です。これは地域に持ち帰って相談したわけでもねぇな。

 

西さん

ご自身の息子さん達も大鳥から出て行かれたと思うんですけども、その辺とかの理由はどこにあると思いますか?一番大きい理由。例えば学校がないとか、働き口なのか。

 

工藤さん

やっぱりの。その時代、鉱山の閉山と共に診療所もなくなる、隣の学校も中学校に統合して、その後に小学校。そうなると自然と私の子供もそうだし、中学校からは鶴岡の学校に行かせてやりたい気持ちがあっていたんだけども、やっぱり子供の意見を聞かねばねぇわけだから。「中学校だけは朝日中学校を卒業したい」と言われて、中学校だけは朝日中学校に卒業させて。高校は鶴岡な。その時点で鶴岡に家を求めて、子供達はその家に住ませて、通わせるというようなやり方。これが私の家ばっかりでなくて、よその子供持ってる家庭もそういう状況で。大鳥で、鶴岡に家がない人って数えるほどしかいないです。ほとんどの家が鶴岡に家を求めて子供達に住まわせてる。そういう状況です。

 

受入れ地域の気持ちと、地域おこし協力隊の気持ち

西さん

そういう状況で、86人になった2012年に地域おこし協力隊を入れる、ということに悦夫さんがパッと手を上げて持ち帰った時に反対する人もいなかった、という風に伺っていました。最初、地域おこし協力隊として入ってくる人に何を期待していましたか?あと、結果的に田口さんが来て、どうでしたか?ということを聞きたいです。

 

工藤さん

まず、協力隊の話を持ち帰って集落の寄合の中でも話をして。やっぱり「顔も見えねぇ」と言われたわけやな。どういう人が来るんだか、ってのは全然わかんねーじゃん。そういうこともあってまず顔見せをしたい、っていうことで一回わざわざ大鳥まで呼んで。それで皆さんに顔見せしました。そしてやっぱり「あの協力隊の2人生き延びていけるんだろうか」という人もいたけれど、結局は「ぜひ来てもらおう」という意見になって、ひとつになっての。して、来てもらったということです。その期待が、家の屋根の雪を掘ってもらいたい、玄関の前の除雪してもらいたい、草刈りしてもらいたい、稲刈りしてもらいたい、って。まず働き手な。地域の働き手として来てもらって、大変申し訳ないけれども、未だに頑張ってもらっております

 

西さん

逆に田口さんは働き手とプレッシャー。自分が地域に入ろうと思った動機と、その地域の期待と自分の思いの一致感なのかギャップ感なのかって、最初入った時どんな気持ちだったんですか?

 

田口さん

僕は協力隊になろうと思ったキッカケはヒッチハイクです。サラリーマン時代にヒッチハイクをして、その時に拾ってくれたおじいさんが京都で山小屋を持っていて、遊びに行かせてもらったら裏山にワラビやタケノコが生えていて、近くに沢が流れていて。それを取ったら沢水で洗い、七輪で作った灰を使ってアク抜きをして食べると。山には人間が生きるのに必要なものが目の前にある環境なんだ、ってことをそこで初めて知りました。東京や大阪でしか暮らしたことがなかったので、生きるには金が絶対条件だ、っていう頭があったんですね。ただ、そこの山間地域も大鳥と同じように若い人がどんどん山を下りていくと言う状況で。仕事を求めていたのか、何なのか分かりませんが、「人が生きるのに必要なものが身の回りにあるのに、なぜだ?」っていう疑問が僕の中にあった。それでご縁があったのが鶴岡市だったということです。そういう訳で、生きる力を身につけたいというのがあったので、田植えとか、草刈りとか雪下ろしとか狩猟とか。そういった野良仕事に関しては色々経験させてもらってむしろ良かったなと。ただ、一番慣れなかったのはコミュニティと言うか、ムラ社会的なところですね。鶴岡の協力隊は平日休みの時もあるんですが、平日日中に家の前に車が置いてあると、「あいつなんで平日なのに休んでいるんだ。」と言われる。あと、パソコン仕事が仕事として認めてもらえないところがあって、日中に事務仕事をやっていると、「あいつ何もやってないじゃないか」っていう風に見られるのが、うーん…ていう感じでした。そういう経験がなかったので。

 

地域の人から中々理解が得られないパソコン仕事

西さん

そこは時が解決したんですか?それとも伝える努力か何かがあったんですか?

 

田口さん

さっき飛島の松本さんが言っていたみたいに、「わかってもらえないんだなー」というのはありました。地域の人がスマホを持ち始めたのが本当に最近なので。そう、最近、大鳥でスマホが普及しております。笑 おじいちゃんたちが頑張ってやっているんですが。電話で「教えてくれ」って呼ばれることがあります。笑 最近になってホームページを見るようになったり、YouTubeという言葉がおじいちゃん・おばあちゃんの口から出るようになったのですが。以前は、何言っても仕方がないというところで時が解決するのを待つって感じですかね。ただ、情報発信みたいなこと以外にも事務仕事っていうのはあるわけですね。年賀状を作ってくれとか、会計やってくれとか。そういったところでパソコンができると結構重宝されるので、理解が得やすいのかなと思ったりします。

 

西さん

その辺があるから、打ち合わせの時に馴染んでいくために気使ったことある?って聞いたら、一番に字を大きく作る、って言っていましたね。

 

田口さん

フォントサイズは12以上じゃないとだめですね。70歳以上を超えると12以上じゃないと見えないみたいで。「事務仕事をやりますよ」って言うPRは一つ有効だと思います。地域の組織に入っていくには。

 

西さん

そんな田口君を逃さないための仕掛けがすごく前の打ち合わせで印象的だったのですが。

 

逃がさないために、マタギと仕事という鎖を用意して…

工藤さん

まずは、顔見せで来てもらって、地域に呼んで。おかげさまで、地域の人は皆さん賛同してくれるから良かったけれども。自分は、彼ら2人を迎えた以上は自分責任を持たなければならないと、肝に銘じて。大鳥から逃がさないためにはどうするのか、どうしたらいいのかと考えた時にの。やっぱり、狩猟免許。マタギの世界に入ってもらって、その魅力をイメージつけさせること。狩猟免許を市の助成を受けながら取らせてもらったのが第一番目です。その頃私が自治会長だったんですね。その後、協力隊が2年目だったかな、大鳥池の水の監視員の仕事を私がやっていたんだけど、それも小遣い稼ぎとして協力隊にやってもらって。その後に、自治会長ももう一人の協力隊にやってもらって。でも、やっぱり自治会長は大変だ、ってことで2年任期のところを1年目で「辞めたい。」と言われた時は困ったけれども、「まず任期はお願いしたい。」とお願いして何とかやってもらったと。その後が田口君にやってもらって。有難いことに本当で協力隊入ってきての。そして今言ったように、色んなことを全て願い通りに進んでくれて受けてくれて、大変良かったなぁと思っていたんですけども。

 

ヨソモノが自治会長になる難しさ。

西さん

大鳥という地域の魅力を存分に知ってもらうために狩猟免許を即取らせたということですね。その後にプラス仕事と言うか、”地域の役”というのをドンドン任せていったというところで、田口さんが自治会長になることへ繋がっていくのだと思いますが。逆に、集落の人口が少ないからいろんな仕事とか役割とか若い人に期待するのはよくわかるんですが、その代表である自治会長とかをわずか5~6年の方に任せるって言うのは集落全体でOKだったんですか?

 

工藤さん

それが問題だなや。とにかく地域の人がたは、よそ者という言葉を使うんだよな。大変失礼な言葉だけども、「よそ者に自治会長とか、それはどういうあんだ?」って言う先輩も中にはいます。今もいます。今、特に春の役員の改選期の時期だから、「あれではダメなんでねえか?」とか、「あれではうまくねぇんでねーか」っていう声が聞こえてくるけども。それにはめげずに引き続き、いろんな役をお願いしていきたいと思っております。

 

西さん

あまり強引に繋ぐことはしたくないのですが、今日もみなさん聞かれたと思いますが「責任と覚悟」という共通するキーワードがすごく出てくるんですね。事前に話を伺ってもすごく理想的な関係性だなと思いつつも、地域の中では反対されている方もいて。そこに上手にコーディネートされたとか、貢献してくださっている工藤さんがいるって言うところも現在進行形ということであられるんですね。その状況の中で、役を受けて回していくというのはやっぱり大変ですか。

 

田口さん

役は中身を見るとそんなに大層なことはやってないと言うか…。役にもよるんですが。自治会長に関しては十数万ってお金を頂くんです。それは自治会によって違うので一概には言えませんが、多少なりともお金が必要な我々世代にとっては有難い。仕事の中身に関しても事務や段取りがほとんどなんですね。まず、やらなければいけないことと言うのは寄合の準備をしたり、行事の段取りを組んだり、回覧板を回したりとか。そういったことで報酬を頂けるので、まぁいいのかなぁと思ったりするのですが、本当の自治会、とか自治というのはそれだけではなくて。山崩れがあって道がふさがれた、とか洪水がおきそうだから河床を掘って欲しい、とか砂利道が凸凹になったからそれを埋めて欲しい、とか。自分たちの生活に関わることを行政なりに要望として上げていかなければいけない、というのもあって。それをいち早く察知する、もしくは地域の人から聞いた話を吸い上げていく、というのが自治会長の大きな役割でもあるのかな、と思っているので、そういった面では全然できてないと思っています。地域の山の名前、場所の名前、川の名前、まだまだ知らないことが沢山あって。そういう意味で「地元の人の方がふさわしいのかな」と思うのですが、なり手がいないっていうのがありますよね。70代後半までは何とかなるのですが、80代を越えると役を持ちたくない、というのが出てきて。80歳になって、僕としても役を押し付けたくもないですよね。で、それは他の人についても同じことが言えて。移住者は6人いるって話をしましたが、みんながみんな、地域に積極的に関わっていきたい、っていうよりは何か目的があって来ているので。自分の目的…。なんていうか、「自治会に入っているからこういう行事に必ず参加しなければいけない…」みたいな雰囲気が嫌いとか。それはそれでは尊重しなければいけないので、難しいなぁと。でも、役職の数は市から降りてくるものは数は決まっているので、入れなきゃいけないみたいな。

 

ヨソから来た人が次なる移住者のコーディネーターへ

西さん

今後、彼らに期待することをとか、今後よそから来た若者がここの住民になって一緒に生きていく中で期待すること。をまず悦夫さんどうですか?

 

工藤さん

期待することいっぱいあります。田口君にはいろんなコーディネートをしてもらって、いろんな体験させてもらいました。数年前は鶴岡市のイタリア食科学大学研修生15人とスタッフの人が俺の家まできて、私が講師になって、うちのばぁちゃんが料理の講師になって。二日間か、いい体験させてもらいました。これも田口君いなければできない体験かなと思っています。それから、今年の春になると、大鳥に3名入ります。3名の移住者。それも今のところまだ顔をわからずで、3日いて帰るのか、死ぬまで住みついてくれるのか。その辺はわからないけども、ちゃんと田口君がコーディネートをしながら地域の人と上手くコミュニケーション取ってもらって。せっかく来た人を逃さないように鎖で縛っておくという風に思っております。笑 それで、今度の3人は協力隊とは考えも違うだろうし、対応の仕方も違ってくるとも思うので。その辺もこれから相談しながら。来たら気持ちよく迎え入れて。いきなり自治会の役職にはしないようにしながら、上手くやっていけたらいいなと思っております。

 

西さん

事前打合せの時に田口さんの方から「悦夫さんが朝から晩まで働いて体力がとんでもない。」という話はありましたが、まだ数年はお元気でいらっしゃると思いますけど、10年後20年後の地域のこうやって受け入れてくださった皆さんとの未来って、どういう風に描いていますか?

 

田口さん

僕は個人的な興味で民俗学というのをやっていて、大鳥のことを色々調べているのですが、調べれば調べるほど分からないことが出てきて。あそこの山は何ていう山だとかあそこの屋号は何ていう名前だとかっていうことがめちゃくちゃあると。で、1945年から60年ぐらいの間というのは戦後の食料難を経験しながら高度経済成長を迎える前の段階。その年代に若いながらに仕事をしていた人たちというのは、山の生かし方を非常に知っているんですね。炭を焼いたり、獣を獲ったり、魚を獲ったりと。そういう山の中で暮らしていく知恵というものをもっともっと残していきたいので、地域の人からもっともっと山のことを教えて貰いたい。それを次に繋げたいという気持ちが一番あるんですが、とりあえずは残していきたいなと思っています。そこが僕の原点でもあり、大鳥の中で一番魅力を感じるところ。地元の人が山で仕事をする。その知恵、それを生活に活かすということですね。

 

移住者に対し、最初から最後まで責任を持つ覚悟を持ち合わせているか?

西さん

私からの最後の質問は、これからUターンで帰ってくる人とかIターンを受け入れようとしている人達に、何かこれまでの経験を元にしたアドバイスやヒントを頂ければと思います。

 

工藤さん

そうだねー。やっぱり地域あっての私であるわけだけども、自分を犠牲に、って言うか。自分を犠牲にしてまで、そのぐらいの気持ちにならないとやっぱり大変なのかなあと。人を頼って、まずよそ者を入れる、というのはちょっと難しいかなと。誰かが責任をもって誰かが最初から最後まで。お金の事から何まで皆心配してくれるぐらいの気持ちでないと、ちょっと大変なのかなあと思います。

 

西さん

逆に田口さんは自分が入っていた時の事を思い出すと、どんな言葉を送りますか?

 

田口さん

今、悦夫さんが言ったようなところで。バランスの取り方が難しいですが、受け入れる方々はヨソから来る人たちを気に掛けてもらえればいいのかな、と思います。自治会の呑み会や共同作業とかで話をした時に、「この人山に興味あるのかな?」とか「狩猟に興味あるのかな?」とか、そういうのを感じた時に自分から与えると言うか、教えると言うか。「一緒にキノコの菌植えにいこう。」とかって誘って、そういうところにちゃんと手間賃を払う、とか。都会の人って本当に来て2~3年なんて全然役に立たないんですよ、野良仕事は。何て言うか、お金をもらいながら教えてもらっているインターンみたいな。そんな感じですが、それでも気に掛けてくれて仕事を振ってくれたりとか。おすそわけっていうのも一つのキーワードだと思います。やりすぎると見張られているような感じがして、負担に思う方が若い人にはいるんですが。その辺のバランス・距離感を直接相対しながら測って。だけど、ちゃんとあなたのことを見てるし、いつかはこの地域で役に立ってもらいたい、というところを、それとなく伝えられればいいのかなと思っています。

 

いざという時に助けてくれるのは地域の人。

企画者 すけだち

世代が離れているお二人ですが、元からいた悦夫さんと外からきた田口さんが互いに認めたところや、これは譲れない…ということがあれば教えて貰いたいです。

 

田口さん

溶け込んでいった、というのは割とあるのかなぁと思います。僕はいろんな本を読んだりとか他の地域とかを見たりして、地域の共同体というものが「こういうものだ。」というのが何となくわかった時があって。必要以上にコミュニケーションを取るのも、いざという時にお互いに助け合うためって言う相互関係なんですよね。遠くの親戚よりも近くの他人のほうがよっぽど頼りになると言うか、何かあった時に絶対助けてくれるのは地域の人だから。親じゃないんでね。お金はわかんないけど、体のことはね。なので、そういう意味でちゃんと合理的に地域を運営してきたんだなーっていう風に理解し始めてからは、ストレスがある時もあるけど、ない状態が長くなったっていう感じですかね。

 

工藤さん

譲れないところはありません。はっきり言って。なんでかって言うと、冒頭から言っているように自分で連れてきた人だからの。まず何があっても育てねばねぇ、ということが頭さある。とにかく全て、手取り足取り教えていく。体験させるなり。という風なことをやってきたつもりです。田口君はどういう感じでいるのか分かりませんけども。それについてきてくれたのが非常に嬉しいなやの。「明日の朝手伝え」とか、「今日は山さ行く」とか。それさ、「ハイハイ」って言って付いて来てくれるのはすごくありがたくてな。一般の人はそういう対応していない。ただよそ者という見方をしたり、そういう付き合いがあまりしてないみたいで。私から見るとね。

 

田口さん

地域の多くの人の場合は、何か用があったら声をかけてくれる感じですね。例えば猟友会だと、「今週末にイノシシ狩りに行くぞー」とかって声が掛かる。ですが、悦夫さんの場合は、いきなり電話が掛かってきて、「お前、今どこにいた?!」って所在地をまず聞かれるわけですね。で、「今何してるんだ?!」って聞かれて、まず大鳥にいれば「アナグマ獲ったから、お前来い!」みたいな感じで。言葉が非常に汚くて投げやりなんで、聞いた瞬間にイラッとすることが結構あります。笑 愛があるコミュニケーションだけど、イラッとする。それは譲れません。笑

 

(会場笑)

 

工藤さん

今、言った田口君のお話ね、良くとってもらえれば有難いことだけども、自分としてはそんな気持ちさらさらなくての、対応してるつもりですので、よろしくお願いします。笑

 

(会場笑)

 

地域の役を受けることへの重たさはあるか?

参加者

とても工藤さんの方から責任と覚悟って、すごく印象的で羨ましいなと思ったんですけど。私は1年前まで地域おこし協力隊をしていて、今は就職したんですけども、無責任な自治体がとても多いなって協力隊を3年間やっていて思ったんですね。その辺、自治体が受け入れを進めるというのをどう思いますか?それと、田口さんにとって魅力を分かってもらうために狩猟免許を取ってもらうとか、自治会の役をもらうことについて、ちょっと重い、みたいなこと思ったことはありますか?

 

田口さん

役については重いと思っています。中身がどうであれ、ひとつひとつの役に責任が生じるという意味で負担に感じるところがあって。先ほど大網のセクションでも組織の改革って話がありましたが、大鳥にでも組織を再編したんですが、そういうことを考えていかないと幾つも役があってキツイなって思うことはあります。あと、自治体の受け入れ体制について、主観ですが、鶴岡市の場合は本当に良かったと思っています。

 

西さん

少し補足すると、鶴岡市もコーディネーターが厚く、しっかりとコーディネートしていて。鶴岡市として最初に協力隊を入れたのが大鳥で、次は旧温海町の福栄地区というところなんですけども、そこへ協力隊を入れる際、事前に受け入れ地域の人達に田口さんと工藤さんが行かれたんですよね。受け入れのための勉強会とか、その辺のコーディネートもされていたようです。補足でした。

 

地域の人と汗をかくこと、それを繰り返すことが全てに置いてのベースとなる。

企画者

いろんな地域の話を聞いて、他の地域だから私は無責任に言いたいことが言えたりしますけど、いざ自分の地域となると中々…。その、自分の住む環境のことを考えてしまったりとか、ちょっと黙っていたほうが後々いいのかなとか。そういうことを最近思ったりするんですけど、同じようなことを思ったことがあったとしたら、それをどうしていたか、どうやって乗り越えてきたか、というのを教えても欲しいなと思います。

 

田口さん

地域の中だとちゃんと役職をもらって下から這い上がっていく。と言うと聞こえが良いか悪いかわからないんですけども、地域の中で求められたことをちゃんとやる、という事を繰り返す、っていうことが前提にあると思います。それが地域の中での一つの見える形での信頼になると思うので。それがベースにあった上で、例えば地域の人と一緒にイベントを組んでやってみて、自分が持つ特技とか、パソコンが得意だとかを地域の中で知ってもらったりとかして、っていうステップがあって。「あいつこんなことが出来るんだろうな」っていう認識が広まっていく中で、じゃあ「この企画に関してはこういうことを考えましょうよ。」と言うようなことを徐々に発言していたところが僕はあるのかなと。勢いで「オラー!」っていったこともあるんですけど、跳ね返されましたね。「地域をよく知れ」っていうのはよく言われることかと思いますが、そこからだと思います。一緒の仕事をして、一緒に汗をかいていくっていう泥臭いやり方がいいのかなと。そこから見えてくる景色というのもあるんじゃないのかなと。今のご時世、この人たちはここに住まなくて良いだろうに、なんでここに居続けるだろうっていうような魅力とか、かなと思います。人によってやり方が違うと思いますが、飛島の場合も、風景の保存を0次産業という形でキャッチーな唄い方をしていますが、あれは村の人がずっとやってきたことですよね。草刈りとか雪下ろしとか。自分たちの生活インフラに関わるのようなことを確実にひとつひとつやっていく。それがまずベースになかったら、飛島は立ち上がらなかったんじゃないかなって勝手に思っています。

 

西さん

今回は事例ということで登壇はして頂いているんですけど、現在進行形で責任と覚悟で調整されたり守っているところだとか、相談しながら地域の今後のあり方を考えているお二人に登壇いただきましたので、何かヒントが持って帰っていただけると嬉しいなと思います。ということで、これで最後のセッションを終わりたいと思います。大鳥のお二人でした。ありがとうございました。

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