ひろろーぐ

小さな山村で暮らしながら、地域社会、民俗、狩猟、採集について考察・再定義するブログ

昔の友達と、今を語り合りあう。~じーさん・ばーさんになっても、「また会いたい」と思えるのが友達~

2015/09/21

ども、田口(@tagu_h1114_18)です。

 

東京で開かれた後輩の結婚式を機に、大学時代にヨット部の友達と再会し、久しぶりに昼間から飲んで語り合いました。

僕は大学で体育会ヨット部というのに所属していたのですが、再会した友達はそこの一つ上の先輩で、一番といっていいほどお世話になった方でした。

 

思い出話をすればたくさん出てくるのですが、話したことはお互いの今のこと。

 

彼は旅館を経営している社長さん。

親父さんから引き継いだという形なので、いわゆる後継息子。

表向き、旅館の経営者・社長でカッコイイのですが、それなりの規模の旅館をやっていることもあって、当然ながら毎月売上も利益を上げなきゃいけない。今まで旅館を支えててくれた親父さん、おふくろさん、従業員の人たちに安心して働いてもらえるように裏では泥臭いことを結構しているらしい。

地元にお客さんが沢山いることもあって、会社の裏側については地元ではあまり話せないみたい。

 

話の流れの中で、僕のことをこんな風に言っていた。

 

「大学時代のたぐっちゃんは、話している途中に割って入ってはもっとストレートに、感情交じりに意見を言っていた。けれど今は、最後まで話を聞いた上で客観的に、俯瞰して違いや意見を述べるようになったね。」

 

なんだか嬉しかった。

“客観的に述べる”とか、”俯瞰している”とかいう事じゃなくて、昔の僕をよく見てくれていたんだなって思ったし、今の僕も良く見てくれているんだなって思ったから。

 

それに対し、「昔と今で、俺、変わったかな?」と聞かれたけれど、そのとき僕は何も答えられなかった。

なんか、少し申し訳ないなってその時は思ったけど、振り返って考えてみれば、時間が経っても変わらないなぁって思うことはあった。

 

いつも身近な誰かに生かされているという実感があること。

自分がやりたいと思うことの向こう側には必ず、身近な人が喜んでくれる姿がみえること。

 

昔の彼が、今も僕の目の前にいた。

形や表現方法は変わったけれど、昔と変わらず人が好きなところ。それが態度にも言葉にも表れていた。

「らしいなぁ…」って思った。

 

友達と僕。今と昔。

昔の友人と会ったとしても、昔と同じようにはどうしても話すことができない。

 

僕は、山形で生まれ、世田谷・川崎で小っちゃい時を過ごし、小学生~高校生まで大阪。大学生から東京に戻り、7年過ごした後に山形の庄内に来ている。

場所を帰る度に方言から、言葉から、態度から…変わってしまう傾向が強いので、3年ぶりとかに大阪の友達と会うと違和感を感じられることが本当に多い。

 

昔のままであれば気持ちよくお喋りできるのに…。

昔の友達と久々に会うと、そう感じることが度々ある。

 

けれど過去に仲が良かった友達ってやつは不思議なもので、時間が経ってお互いが変わって、顔を合わせた時に違和感を感じたとしても、話が終始噛み合わなくても、一緒に過ごしている時間が苦しくない。表面に見える変化や態度・表現などが変わっても、「友達だから」というよくわからないフワッとした言葉で何とかなってしまうものなのかなぁって思う。

 

その昔、”友達”というの言葉は元々、性も年齢も同じで、小さい時から一緒に育っただけでなく、数が多ければその中から若干を選んで、死ぬまで付き合おうという仲になっているもののことで、一切の生活の悩み喜びをともにし、互いに心の奥速まで知り合っているのが当然と考えられていたらしい。

参考:『日本人とはなにか』柳田国男著

 

転勤みたいな概念もない時代の話だから現代とは少しギャップを感じるけれど、友達を親友という言葉に置き換えれば、昔も今も似たような感覚なのかなと思う。 

現代では、FacebookだのSNSが発達してコミュニケーションの形が進化したけれど、”友達”という言葉が、僕が小さい時よりもよっぽど抽象的で広い範囲をカバーする概念に変わってしまったと思う。誰が友達で、誰が知り合いなのか…身の回りを取り巻く人達が何者なのかよくわからなくなってしまっているような気がする…。

けど、よくよく胸に手を当てて考えてみれば、本当に自分の友達だと感じられる人はそんな沢山はいない。

両手で余裕で足りてしまうくらいなもんじゃないかなって思う。

 

人は当たり前のように変わる。

けれど、どれだけ歳をとっても、お互いどんなに仕事や活動が変わっても、「また会いたい」と思える人と出会えたら、それは死ぬまで財産になると思う。

 

お互いにじーさん、ばーさんになっても、「50年以上の腐れ縁なんじゃ…」なんて言えたらいいなぁって思う。

そういう人が、友達なんじゃないかなって思う。 

 

生きているうちは、再び"友達"に会えることを楽しみにしながら、頑張ります。

 

せば、またの。

2015-09-20-1

-考察

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